一度だけこの家に入ったことがある。

その時は、島田が青い顔で布団の中で横たわっているのを見ていたため、周りの風景なんて見えていなかった。

そして二度目に入った今、自分の家とまったく同じ造りの部屋にも関わらず、やたらと緊張している結衣子がいた。

置いてある家具、部屋の香り、窓から見える景色。

間取りは同じだが、やはりここは他人の家なのだと感じさせる。

温かいココアを手に持った島田が目の前に座り、結衣子は落ち着かない様子でいろいろなところに向けていた視線を島田へと移した。



「……松本がクリスマスの予定を訊いたのもお前ってこと…だよな?」
「…おそらく…」
「まっさかウナギ屋の女の子がお前とはなあ…」
「…私も将棋会館に島田さんがいてビックリしましたよ」



松本にバレンタインの予定を訊かれていた結衣子の姿を確認して声を掛け、島田と結衣子が知り合いだということはそのすぐ後に判明したことだ。

結衣子の頭を撫でる島田に、「あのう…二人はお知り合いで?」とスミスが問いかけ、松本は字のごとく放心状態。

ざわつく周囲の視線に耐えかね、島田は結衣子を引っ張るようにして将棋会館を後にし、仕事が終わったら島田の家に来るようにと頼んだ。

驚き、驚き、驚き、ひたすら驚き。

島田の家で静かに話す二人の間にある机の上には、将棋盤が置かれている。

その将棋盤と島田の顔を見比べ、結衣子は心の中で頷く。

初めて将棋会館に行った時に島田と将棋盤が似合うと思ったあの時の自分の感性は、間違っていなかったのだ。



「島田さんはプロ棋士ってことですよね」
「ああ、まあな、うん」
「ずっと似合うなって思ってたんです。島田さんと将棋盤」



将棋盤と向き合い、いくつもの作品を作っていくプロ棋士。

将棋が好きな人の中でもなれるのはわずか一握りの、とても人数の少ない職種。

島田の事を「兄者」と呼ぶ二階堂の発言も今ならわかる。

彼は俗に言う弟弟子というものだ。

お互いに職業を隠していたわけではなかったが、思わぬところで繋がった点と点。

プロ棋士とウナギ屋という、何の関連性もない点同士である。

将棋会館で出会った驚きも落ち着き、目の前でココアを美味しそうに飲んでいる結衣子をチラリと見た島田は、コホンと小さく咳ばらいをした。

彼女に、訊きたいことがある。



「それであれだ…松本にバレンタインの予定を訊かれてた時の答えなんだが」
「答え?」
「いや、今好きな…とか言いかけてたような気がしてな」
「そ、それは忘れましょう!ね!」



爆発したかのような勢いで見る見るうちに赤くなっていく結衣子の額を、少し身を乗り出して小突く。


嘘をつくのが下手というか、馬鹿正直というか…


苦笑しながら結衣子を見るも、その心は穏やかなものだ。

こうしてまた、期待を膨らませてしまうのだ。

もしかしたら自分に風が向いているのかもしれない、なんて。

この勢いのまま、獅子王戦も駆け抜けていけるのだろうか。



「一週間後、獅子王戦っていうのがあるんだ」
「タイトル戦、ってやつですか?」
「…ああ。来週からのは挑戦者決定トーナメントだが、なんとしても勝ちたくてな」



トーナメントの間は、結衣子に会わないようにしている。

一人で集中していたいから。

結衣子と会うと、心が動揺してしまう気がするから。

これは逃げなのだろうか。

彼女のしぐさ一つで自分が嫌われているのではないかと勘違いして心が乱れるくらいの存在の彼女をなるべく遠ざけておきたいのだ。

もし彼女が自分のことを好きだと言ってくれるのなら。

…トーナメントの時でも会えるようになるのだろうか。





獅子王戦挑戦者決定トーナメントが始まった。

そこで島田は、新たに若い棋士と出会うことになった。

名前は桐山零。

史上五人目の中学生でプロ棋士になった男であり、島田の弟弟子である二海堂のライバルである。

桐山の頭をカチ割った島田の次の対戦相手は後藤。

ここで先に2勝したものが掴むことができるもの。

それが、獅子王戦への挑戦権。

将棋界で絶対的な地位に君臨する宗谷への挑戦権である。

後藤との二局目を終えた今の結果は、一勝一敗。

次に勝った者こそ、挑戦者の資格を得られるのだ。



「なんでそんなに桐山に良くしてやろうとするんだ?」



島田に直々に「桐山の頭をカチ割ってほしい」と頼みこんできた二海堂にそんなことを尋ねた夜。

後藤との激闘を終え、勝ちを掴んだ日のことだ。

泥の中から出してくれたからだという二海堂の答えに、島田の頭には結衣子の顔がちらつく。

ある意味では、彼女も自分のことを引っ張り出してくれた人物なのかもしれない。

彼女は、元気だろうか。

この数週間は見ていないが、自分が勝ちを掴み取ったならば、その時は彼女の家のチャイムを押してみよう。

二海堂と歩いていると、車の急ブレーキ音が後ろから聞こえてきた。

思わず振り返れば、そこには若い女性を振り切るようにタクシーに乗る後藤の姿があった。



「後藤のバカッ!」
「…え…後藤…たしか妻た……」



自分の隣を見れば、そこには弟弟子である二海堂の姿。

なんだろうか、この差は。

勝てる気のまったくしない勝負は。

去っていくタクシーに叫ぶ女性と二海堂の姿を見比べれば、弟弟子もまた女性の背中を見た後に島田を見上げた。



「兄者には、結衣子さんがいるではないですか!」
「…そうだな、坊」



今は隣には居ない。

けれど、いつかは隣にいてほしい。

星空を見上げ、島田は二海堂の言葉を胸へとしまい込んだ。

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