約束の時間は午前10時。

初詣に行くとしてはちょうど混んでいる時間帯なのだろうか。

そして、その時間まであと30分。

結衣子は家の中で姿見の前に立ち、落ち着かない様子で自分の格好を確認していた。



「…おばさん、変なところないですか?」
「大丈夫よ、結衣子ちゃん。初詣なんだもの、晴れやかな着物くらい着なくちゃね」



着付けを済ませた女性がポンと背中を押して微笑む。

ウナギ屋の主人の妻であるこの女性は、年末に結衣子が正月に初詣に行くと聞くや否や「それなら着物を着ていかなくちゃ」と張り切っていた人物である。

そしてその当日、女性は本当に結衣子の家を訪れ、朝7時から世話を焼いていたのだ。

すべての用意が終わった今、女性は笑いを含みながら結衣子に問いかける。



「今日の初詣、男の人と行くなら効果バッチリよ」
「おばさん…!」
「ふふふ、いつも仕事中はオシャレなんてほとんど気を遣えないから、こんな時くらいはね」



ウナギ屋の厨房は、夏はまさに地獄のような暑さであり、冬であっても暑さは緩むことがない。

そんな中で化粧や服装に気を遣ったところで仕事の邪魔になってしまうだけであり、結衣子は普段から最低限の身だしなみだけを整えるようにしていた。

その事実がウナギ屋の夫人にとっては気に掛かっていたことらしく、今こうして普段決して見ることのできない着物を着こんだ結衣子の姿に満足したようだ。

最後に結衣子の全身を写した写真を撮り、「じゃあ私はこれで」と帰っていった。

その後ろ姿を玄関から見送り、結衣子は小さくため息をつく。


この格好、変じゃないのかな…?


女性は太鼓判を押してくれたが、なにしろ着物なんて着る機会などほとんどない。

自分でも見慣れない姿なのに、島田はどんな反応をするんだろう。

あと10分ほどで約束の時間になることを確認した結衣子は、最後に家の見回りをしてから出かけようと玄関に背を向ける。

待ち合わせの場所は、玄関の目の前。

あと数分後には島田がその場所に立っていることを想像するだけで胸が躍るのを感じ、結衣子は静かに玄関を閉めた。





「……見間違えじゃない、よな?」



自分の家の玄関に背中を預けるようにして、島田は口を手で押さえる。

目に焼き付いているのは、先ほどの光景。

初詣の集合時刻は午前10時、場所はお互いの玄関先の前。

出かける準備が早く終わったために集合時刻より10分以上早く外に出て待とうとしたところ、島田が小さく玄関を開けると同時に結衣子の家の玄関も開く。

そして中から出てきたのが初老の女性だったために、島田が身をひそめるように玄関の扉を閉めようとすると、その隙間から見えたのだ。



「着物、ね…」



彼女は職業柄のせいか、普段はとてもシンプルな格好をしている。

そのことに対し、島田としては「変に着飾らず良い」と好印象を持っていたのだが、今日の彼女の格好は…。

もう一度大きくため息をつき、島田はやっと口から手を離した。

心なしか、顔にふれていた手のひら全体が熱い。



「…反則だな、ありゃ」



今から、その反則の姿をした彼女と共に初詣に行くのだ。

大きく息を吸い込み、島田は玄関の扉を開いた。

彼女に恥じない、男にならなければ。





二人で並んで、初詣へと向かう。

お互い着物を着こんだ姿を目の当たりにし、二人は言葉少なにお互いを褒め合った。

とても照れくさくて、素直に褒められたものではない。

これが二人の心情である。

目的の神社にたどり着くと、そこは地元の人が参拝する程度なのか予想していたほどの人ごみではなかった。

一通りの所作を済ませたところで、お昼はどうしようかと二人が話し合いを始める。

そしてその時、結衣子の足元に小さな衝撃が加わった。



「いたーい!」
「え!?あ、ごめんね、大丈夫?」
「コラ、モモ!そこのお姉さんにごめんなさいしなさい!」



おみくじをしたのであろうか、小さな紙切れを持った女の子が尻もちをついて泣いている。

慌ててしゃがみこんで頭を撫でれば、すぐにそこへもう一人の女の子が現れた。

結衣子の足にぶつかったのが3歳ほどの女の子に対し、追いかけてきた女の子は中学生くらいだろうか。

彼女もまた、おみくじらしき紙を持って妹のそばへと駆け寄ってきた。

島田もしゃがみ込み、「大丈夫か?」と結衣子と女の子双方の様子を心配そうに見ている。

やがて、中学生らしき子の方が立ちあがって結衣子達に向かって頭を下げた。



「ごめんなさい、ぶつかっちゃって…」
「うぅ、ごめんなさい…」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
「モモ、ヒナ、どこー!?」
「あっ、おねいちゃん!こっちだよ、こっち!」



もう一人姉妹がいたのか、女の子二人は後ろを振り返って誰かの呼びかけに答えている。

すっかり元気になった様子の女の子を見て、結衣子は小さく微笑む。

小さな子供の表情はクルクルと変わる。

その様子を見るのが楽しいのだ。

結衣子につられて島田も柔らかく微笑んでいると、姉妹の姉らしき人が遠くの方から現れた。




「もう、モモもヒナもいきなり走りだしてどっかに行っちゃうんだから…」
「だってモモ一人にしたら心配でしょ?それにモモ、このお姉さんにぶつかったんだよ!」
「むぅ…ちゃんとごめんなさいしたもん」
「きゃーっ!?こちらの方にぶつかったの!?本当にごめんなさい、私の不注意で…着物に汚れとかできませんでした?大丈夫ですか?」
「問題ないですよ。ちょっとぶつかっただけですし、私がぼんやりしてたのも悪いんですから」



綺麗な女の人だ、と結衣子は思った。

女性特有の丸みを帯びた体型に、ゆったりと伸びた黒髪、そして穏やかな表情や目鼻立ち。

母親ではないかと勘違いしてしまうような雰囲気だが、見た目的には自分とそこまで年齢は変わっていないように思う。

どうしたらこんな雰囲気が身に付くのか、結衣子にとっては羨ましい限りだ。

そして隣にいた島田も、突然現れたこの女性に目を小さく見開いている。



「本当にごめんなさいね…」
「おねいちゃん、そろそろ零ちゃんが起きちゃうから帰らなきゃ。おじいちゃんに任せてきちゃったけど、皆いないと寂しいよね」
「モモ、零ちゃんのおみくじもやってあげたー!」
「ふふ、そうね。じゃあそろそろ帰りましょうか」



最後にもう一度結衣子に頭を下げ、女性達は帰っていく。

島田の存在に気付いた女性は穏やかに微笑み、島田に向かっても一礼していった。

ちらりと隣の島田の様子を見れば、先ほどの女性の後ろ姿を見つめている。

ああいう女性が好きなんだろうか、と結衣子が若干落ち込んだ矢先、島田がぽつりと口を開いた。



「知り合いなんだ、今の人」
「知り合い、ですか?」
「そう、俺の知り合いの中であの女性にまいっちゃってる人もけっこういてさ。…俺は違うからな?」



最後に小さく付け足した言葉に顔を上げれば、島田は優しい笑みを浮かべてこちらを見ている。

全てお見通しだったのであろうか。

その微笑みに笑顔を返し、結衣子は自分の右手をギュッと握った。

薬指に光るのは、銀色に輝く指輪。

そして今朝、着付けをしてくれたウナギ屋の夫人が、「この指輪のことも、結衣子ちゃんにとって大切な人になら話した方がいいかもね」と言ったことを思い出す。

考えてみれば、もし島田の右手の薬指に指輪があったとしたら、少しためらってしまうかもしれない。

彼女がいるのかもしれない、と。

自分にとってはお守りのようなつもりなのだが、その真意も話さなければなるまい。



「島田さん、この後お昼食べてからちょっと付き合ってもらえますか?」
「…いいけど、どこに行くんだ?」
「お墓です。…この指輪のこと話そうと思って」



一瞬島田の表情が揺らいだような気がした。

しかしそれもすぐに消え去り、また小さくうなずいてくれた。

新たな年の幕開けは、新たな関係への第一歩になるのだろうか。

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