「……はあ」



今日はため息が止まらない。

理由はわかっている。昨日の島田に対する態度のことだ。

自分でふるまった態度だとわかっていても、昨日の態度はあんまりだったと思っている。

こちらを心配して両頬に添えてくれた手を振り払って、「自信がなくなった」といきなり言い出して、逃げるようにその場から去った。

時間が経てば経つほど後悔が募って、同時に島田への申し訳なさが溢れてくる。

とうとう階段の町へ帰って島田と顔を合わせることも怖くなり、昨日は友人の家で急遽一晩を過ごした。

今日も朝から仕事だったため、着替えのために早朝に一度階段の町へ帰ったが島田の家には明かりが点いておらず、心のどこかでほっとする。

しかし同時に、こんな感情を抱いてしまう自分に嫌悪感を覚えた。

個人的な事情で仕事の内容を変えるわけにもいかず、今日も将棋会館まで車を運転する。

駐車場に入るときにドキリと心臓が嫌な音を立てたが、昨日の女性はどこにもおらず、思わず大きく息を吐いた。

きわめて平静に、つとめて自然になるようにと普段と同じ手順でうな重を抱え、将棋会館の入り口を目指す。

昨日の女性はいったい誰だったのだろう。それに後藤のからかうような口調も。



「危ないよ」
「うわっ」



普段通りに、と思っていたにもかかわらず、やはり今日の自分は変だ。

くいっと後ろから肘の辺りを引っ張られ、ややバランスを崩しながら立ち止まると、目の前には将棋会館のガラス張りの正面出入り口があった。

今まさに、この出入り口に衝突しそうになっていたのである。

この一年で考え付きもしなかったような失敗が目前に迫っていたことに、今更ながら冷や汗が背中を伝っていくような気がした。

そして、後ろでこの危機を救ってくれた人影を振り返ると、また別の意味での冷や汗が流れていった。

柔らかそうな茶色の髪をサラサラとなびかせ、銀縁の細いメガネの奥にある涼やかな目。

彼のことは知っている。

島田のいる、将棋界の神様。



「宗谷さん……」



彼女のつぶやきは耳に届いていなかったのか、宗谷の目が彼女の顔を向くことはなかった。

彼女の横を通りぬけて将棋会館に入ろうとした宗谷に、結衣子が慌ててお礼の言葉を言おうと口を開いたと同時に、宗谷が立ち止まった。

ちょうど、結衣子のすぐ隣ではたと足を止めたのだ。

すう、と息を吸うような音がかすかに聞こえ、次に聞こえてきたのは。



「……美味しそうな匂い」
「え?もしかしたら、このうな重の匂いですかね」
「うな重か……最近食べてない」
「そうですか……じゃなくて、先ほどはありがとうございました。助かりました」
「ううん?別に、ぶつからなかったのなら良かった」



あいつは将棋の神様で、わけのわからない化け物みたいに書かれることもあるけど、血の通った人間なんだよ――。

獅子王戦でストレート負けをした島田が、お互いの気持ちを打ち明けた後に、ひっそり教えてくれた言葉がよみがえる。

結衣子は、よく将棋の雑誌を読んでいた。

将棋の勉強を兼ねるのと同時に、世間から見て島田がどういった棋士と思われているのか知りたかったから。

その中で、宗谷の名前を見ることは多くあった。

鬼のような将棋の強さで、将棋以外のことには何も興味がない男、と雑誌に書かれているところもよく見るけれど、そんなことはなかった。

彼も、心の通った人間だ。島田の言った通りだった。



「もしかして、島田の……?」
「えっ」
「なんでもない」



ああ、どうしよう。

将棋の神様に、「島田の……」と含みを持たされたことに、思わず赤面してしまうし、笑ってしまいそうになる。

彼にとって島田がどういった存在なのかはわからないけれど、島田が宗谷に対してあれだけの評価をしているのだから、彼もきっと島田に対して一定の評価をしているはず。

将棋のライバルとしても、きっと、人間としても。

そんな彼から含みを持たされてしまうと、自分が島田の隣にいてもいいような気がしてしまう。

後藤に同じような言葉をかけられたときはあんなにも揺さぶられて嫌悪感を感じたのに、宗谷からの言葉だとほんのりと明かりが燈ったように感じるのはどうしてだろう。

この疑問は誰にぶつければいいのか。答えはわかっているのに、その彼と一方的に距離を取ったのはこちらのほうだ。

昨日は逃げるようにしたのに、今日突然押しかけていって話をしたりして、迷惑がられないだろうか。

ああ、なんで恋愛とはこんなに難しいのか。明確な答えがほしい。



「宗谷、来たか!それに結衣子ちゃんもいるなんて、珍しい組み合わせだなあ」
「うな重、食べたくなった」
「それは俺のだよ、バカ!結衣子ちゃん?どうした?」
「……面白い顔」
「女性に対してそんなこと言ってるからお前はいつまで経っても……って宗谷が棋士以外に興味を示して……!?」



にわかに騒がしくなる将棋会館のロビーの静けさを取り戻すため、将棋会館の職員が事務室から飛び出してくるまであと十秒。

そして職員が来てさらに騒がしくなるロビーを、階段の踊り場から見ていた人影があった。

島田である。

彼もまた、昨日からため息が止まらず、用もないのに将棋会館までやってきてしまった。

本当は昨日のうちにこのため息の原因を解明したかったのだが、肝心の彼女は帰ってこなかったようで、会うことができなかった。

結局一睡もできないまま、まだ朝日も昇り切らない頃に家を出て、適当なカフェで時間をつぶし、将棋会館にやってきてしまった。

二階の休憩室で青い顔で虚空を見つめてため息ばかりつく島田に声をかける人はおらず、気づけば昼の時間になっていた。

昼ということは、彼女がウナギを宅配しにくるのではないか。

そう考えた島田が一階のロビーへ向かおうと腰を上げ、階段の踊り場に到達したとき、ちょうど彼女の姿が見えた。

正確に言えば、うな重を抱えた状態で将棋会館のガラス張りの出入り口に衝突しそうになっている姿。

危ない、と口走って慌てて階段から駆け下りようとした矢先、予想外の人間が彼女を助ける姿を見てしまった。

宗谷である。

刹那、彼女が昨日言っていた言葉の意味が分かってしまった。

『私、島田さんの傍にいる資格があるのかなあって』

『さっきの二人見てたら、なんだか自信なくなっちゃって……』

結衣子と宗谷。

おそらく今日初めて出会ったであろう二人は、何か一言二言交わして、宗谷は柔らかい笑みを浮かべ、結衣子は顔を赤くしている。

宗谷と島田は同い年である。

しかし、宗谷と彼女が並ぶ姿は極めて自然で、年の差なんてないように思える。

比べて自分はどうだろう。

宗谷と島田が同い年だということはたいていの人が驚く事実であるし、性格も見た目も大きく違う。

自分と彼女が並んだ姿は、はたして宗谷と彼女の時ほど自然なのだろうか。

そこまで考えて、踏み出しかけていた足を戻す。

ああ、これは嫉妬というやつだ。

以前松本に対して抱いたものともまた違う、宗谷に対するこの嫉妬。

どうすればいい。こんな子供じみたものに今更振り回されることになるなんて。

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