普段は風の吹く音と、その風に揺らされた木々の葉がそよぐ音が溢れる棋士会館の前に、一つ不釣合いな音が現れた。

コツコツコツ、という軽やかな音を靴のヒールで奏でるその人は、会館前の駐車場の一角で足を止めた。

真っ白の軽ワゴン、側面には店の名前と電話番号。

刻まれた文字を確認した人影はその車の傍らに立ち、車の持ち主が帰ってくることを待つことにした。

きっとまだ、棋士会館の中にいるのだ。

忌々しい、将棋の世界における最高峰と呼べるこの場所に。





「ねえ、あんたでしょ」



死角から突然かけられた声に、結衣子はびくりと肩を跳ねさせる。

冷水を浴びせられたかのような敵意を含んだ声の主は、車の陰から現れた。

昼食のうな重を棋士会館に届けて、空になった器を回収して、車に乗って店へ戻る。

もう一年近く繰り返してきた行動の中で、このような事態に陥ったのは初めてだ。

今日は島田も棋士会館にいて、二人並んで休憩室でお昼を食べられたため少し浮かれた気分でいたのだが、先ほどの声で一気にその熱が冷めたような気がした。



「島田八段と付き合ってるウナギ屋の子って、あんたでしょ」
「え、っと」



思わず言葉に詰まってしまったのには二つ理由がある。

一つはなぜそんな情報をこの人が知っているのか、ということ。

島田と結衣子が付き合っているという事実は、お互いの職場の人々や、ごく一部の人間が知っていることであり、この見ず知らずの人物に知られるような関係ではないからだ。

そしてもう一つは、目の前に現れた人物が同性の自分でも息をのんでしまうほどの美しさを持ち合わせていたこと。

言葉に詰まるほどの美しい容姿で微笑む彼女であったが、目だけは氷のように冷たくこちらを見ていた。

美しいにもかかわらず触れたら火傷してしまいそうな、危うい雰囲気。

夏も終わり、秋となった今、吹く風は冷たさを含み始めた。

その風がさらに、彼女の妖しさを引き立たせる。

結衣子が答えないままでいると、目の前の女性は美しい顔に明らかな怒りの表情を浮かべた。



「なんとか言ったらどうなのよ」
「私が島田八段とお付き合いしていることは事実です、ところであなたは」
「よォ、結衣子チャン?」



聞きなれない声に自分の名前を、しかも「ちゃん」付けで呼ばれたことに、再び結衣子は固まる。

いったい今日は、どういう日だというのだろう。

私は昨日何か悪いことをしただろうか。

その声に固まったのは結衣子だけではなく、目の前の女性もまた、結衣子を通り越したさらに向こうを見て固まった。

と思いきや、すぐにカツカツとヒールの音を響かせて駆け出し、おそらく今声をかけてきたであろう人物のもとへと向かっていく。

ドスの利いた、いつ聞いても震えあがってしまうような声を、結衣子は知っている。

前に一度話した時、その日一日彼女の心の中をぐちゃぐちゃにした張本人。

きっと彼は、今も彼女の後ろに立って、ニヤリと笑った顔をこちらに向けている。



「このストーカー女が迷惑かけたな。また話そうぜ、結衣子チャン」
「ちょっと迷惑ってどういうこと!?それにあの女の名前……あたしのことも名前で呼んだことないくせに」
「はいはい、幸田の娘は黙ってろな」
「私の名前は香子よ、幸田の娘じゃないわ」



後藤九段。島田と一歳違いのA級棋士。

筋肉質な体に長身という立っているだけで威圧感のある風貌に、顔までいかついのだから道行く人も恐れるような雰囲気を持っている。

そして一度話した時、「どうして島田と付き合っているのか」と結衣子を揺さぶってきた人。

後藤の隣へ寄り添うように立った「香子」と名乗った女性は、隣に立つ男に対して怒った様子を見せながらも、本当の怒りを冷たい目で結衣子にぶつけてきている。

いったいこの二人の関係性はなんなのだろう、と思うと同時に目の前にいる二人の美男美女の様子に目を背けたくなる。

島田と一歳違いの後藤と、自分とそう大して変わらない年齢であろう香子。

二人の関係はわからないが、隣に立つ年齢の組み合わせのとしては島田と結衣子とほぼ同じものであったが、周りから見たときにはたして自分と島田はどのような関係に見えるだろうか。

目の前の二人からは「ただならぬ何か」を感じさせる何かがある。

しかし、自分たちにはどうだろう。自分は島田に釣り合っていないのではないか。

周りから見たら、自分が島田の恋人だと思う人なんて誰もいないのではないか。

島田がいるからここにいる、と断言したものの、それは彼の負担になっているのではないか。

ああ、考えれば考えるほど、わからなくなってきた。



「結衣子!」
「お、きたか。それじゃ」
「ちょっと待ってよ!」



棋士会館から出てきた島田が異様な様子に気が付き、小走りでこちらにやってくる。

そちらをちらりと見やり、ひらひらと手を振りながら去る後藤と、彼を慌てて追いながらも最後に結衣子をにらみつけて帰っていく香子。

彼らの後ろ姿には目もくれず、島田は結衣子の両頬に手を当て、こちらに顔を向けさせる。

ひどい顔色だ。それに、ひどく冷たいような気がする。



「結衣子、どうした?後藤さんたちに何か言われたか?」
「私、島田さんの傍にいる資格があるのかなあって」
「……え?」
「さっきの二人見てたら、なんだか自信なくなっちゃって……ごめんなさい、今日はもう行きますね」



島田の手を振りほどくようにそっと添えられた彼女の手を、掴んで引き戻すことはできなかった。

傍にいる資格があるのか。

そんなことを思わせてしまった自分への苛立ちと、いったいなぜそこまで飛躍してしまったのかという彼女への怒りと困惑と、後藤たちへの嫌悪と。

島田自身が頭の中が追い付かず、走り去る車を見送ることしかできなかった。

たった十数分前は一緒にお昼を食べて、笑っていたじゃないか。

それなのに、どうして。

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