普段は一人で通る道だった。
車から注文された重箱をおろして、ほかほかと温かみのあるものを抱えながら正面玄関に入る。
この流れはもう一年近くも繰り返されてきたことであり、結衣子にとってもある意味「当たり前の行動」だった。
しかし、今日は隣に島田がいる。
この棋士会館に、何十年と通ってきた彼と共に玄関を通ること。
隣の島田の引き締まった表情に、思わず背筋が伸びてしまう。
「お邪魔します」
「…言っとくが、ここは俺の家じゃないぞ?」
「でも、島田さんにとって特別な場所であることは確かなはずです」
いつになく緊張した表情で玄関を通る結衣子に笑みを零すと、返ってきた言葉は予想外なものだった。
島田さんだって今は笑ってますけど、通る瞬間は表情が違いましたよ、と指摘され、思わず黙ってしまう。
この場所で何度自分を恨んだだろう。
何度喜びに身を震わせただろう。
初めて棋士会館に入った時は、自分はどんな顔をしていたのだろう。
初めて昇級した時、ここで兄弟子たちに頭を撫でてもらった。
もう一歩でタイトル戦挑戦権獲得というところで負けたとき、涙を流した。
数えきれないほどの思い出がある場所。
おそらく自分にとって、人生の中の半分以上は感情を爆発させている場所。
騎士会館を出て、ウナギ屋に寄ってみると、店主とその妻である奥さん、そしてバイトの子が店を切り盛りしていた。
島田と共に入ってきた結衣子の姿を見るなり、奥さんはパッと顔を輝かせて二人に近づいてきた。
「こんにちは、お疲れ様です」
「こんにちは、結衣子ちゃん。お隣の方はもしかして……」
「隣に住んでいる方で、ええと、お付き合いさせていただいている島田さんです」
年がらもなく、ドキッと胸が高鳴った音を島田は感じた。
隣人で知り合い、程度の紹介でもかまわなかったのだが、交際をしていると言い切った彼女の横顔を盗み見る。
ああ、やっぱり、彼女のまっすぐさが好きだ。
自分で言い切っておいて真っ赤になっているその横顔も、思わず見惚れてしまう。
そんな二人の様子を見ていた奥さんはにっこりと笑い、二人を片隅の席へと案内した。
注文を終えた後、島田はぐるりと店内を見渡す。
窓際に一列に並ぶようにおかれたテーブル席に、奥に設置された座敷席、空いた空間には囲炉裏が置かれていて、厨房から香る匂いは食欲をそそる。
どこか懐かしい雰囲気に包まれた店内のレジ横には王将が置かれていて、島田は思わず笑みをこぼした。
自分の職場をじっくり見られて恥ずかしいのか、落ち着かない様子でとっくに料理を注文したというのにメニューから目を離そうとしない結衣子に対して、ふと疑問がわく。
そういえば、彼女はどうしてウナギ屋に就職したのだろう。
実家は長野だと聞いていたが、わざわざ東京まで出てきてウナギ屋に就職するというのは珍しい例なのではないだろうか。
「結衣子は長野の大学を出ていて、東京のウナギ屋に就職が決まったから友達と今の家を見つけたんだよな?」
「そうですよ、就活のたびにこっちに来るのは大変でした」
「どうして東京のウナギ屋に?ほかの一般企業は考えなかったのか?」
「言ってませんでしたっけ、私実家がウナギ屋なんですよ」
考えてみれば、指輪をめぐる友人のことは話したが、その中で実家については触れていなかった。
結衣子の実家はウナギ屋であった。
祖父で五代目、父で六代目、そして次の代が七代目となる。
幼いころからウナギ屋の厨房を手伝っていた結衣子にとって、将来の選択を考えた時にたどり着く先はウナギ屋しかなかった。
一般企業に入って机の前で書類を整理したり、パソコンに何かを打ち込んでいる姿など自分のことなのに想像すらできなかった。
それにもかかわらず大学へ行った理由は、若いうちにできるだけ見聞を広めておいたほうがいいという祖父の言葉があったから。
大学三年も半ばを過ぎたころ、周りが就活を始める中で、彼女には一つの悩みがあった。
どこのウナギ屋で就職するのかということ。
順当に実家を継ぐか、友達のいる東京へ行くか。
散々悩み、周囲とも相談し、決め手となったのはやはり祖父の言葉だった。
「こっちでウナギ屋を継ぐなんてことはいくらでもできる。でもその友達の傍にいることは、今しかできないんじゃないか」
そうした言葉を貰った今、結衣子はここにいる。
結衣子の実家の話を神妙な面持ちで聞いていた島田は、また新たに疑問が浮かぶ。
友達のそばにいることを選んだ彼女。
つまり、いずれは。
「……実家に戻るってこともあるのか?」
ぽつりと島田がこぼした言葉に、結衣子はぱちくりと瞬きを繰り返す。
実家に戻る、という選択肢。
友人が亡くなってしまった今、自分が東京にいる必要はあるのだろうか。
そういった考えは不思議と今まで持っておらず、時々電話をする家族のほうからも「それで、いつこっちに帰ってくるの」という話はなかった。
考えてみれば、こちらに来るきっかけが友人がならば、その存在が消えてしまった今、東京から去るということがすぐに思い浮かんでもいいはず。
しかし、その考えが今までまったく浮かんでいなかったということは、ああ、そうだ、きっと。
「もしかしたら、実家に戻るということもいつかはあるのかもしれませんけど」
「……え?」
「今は島田さんがいるから、ここから離れようとは思ってません」
「そんなの、反則だろ……」
真っ赤になった顔を片手で覆い隠すようにした島田のもとへ、にこやかな笑みを浮かべた奥さんがうな丼が届けた。
穏やかな、休日の午後のことだった。
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