妹が明るい顔をして帰ってきた。

わざわざ家まで送り届けてくれたのは楠木結衣子という二十代半ばの女性で、昨晩の花火大会に妹を連れて行ってくれた人だ。

加えて家にまで泊めてもらい、今朝はこのようにして丁寧に妹と共に家までやってきてくれた。

お礼も兼ねて家に上がっていくように勧めてみると、用事があるからと言ってお茶を一杯だけ飲んで帰っていってしまった。

妹であるひなたが結衣子の置いていった空の湯呑を台所に運びながら、洗い物をするあかりの横顔を見る。

何か探るようなその視線に耐えられず、あかりは笑みを含みながら静かに問いかけた。



「なあに?」
「おねいちゃんは、好きな人いないの?」
「好きな人?そうねえ、まずひなたがいるでしょ。モモとおじいちゃんも。それから零くんと…」
「うーん、そういうのじゃなくって」



家族くらい好きで、だけど、一緒にいるとドキドキする人のこと。

そう付け加えたひなたの顔を見る限り、昨晩からの経験は彼女にとっての憧れになったらしい。

きっと、ひなたに憧れを与えたのは結衣子たちだろう。

あかりも結衣子と島田がどのような関係かということは知っていた。

元々島田とは棋士行きつけのスナックの店員と客という関係で知り合いであり、穏やかで誠実な人柄はよくわかっていた。

そんな彼の口から、いつの日からか「隣に住み始めた人」のことがよく出てくることも、おそらく世界中で彼女が一番に気が付いただろう。

そして、お正月。

島田から「お隣さん」の容姿については何一つ聞いていなかったが、島田と二人でいるところを見てすぐにわかった。

この人が、島田にとって大切な存在になった人だ。

その後ひょんなところ、祖父から結衣子との関係が構築されたが、交流のある今でも第一印象は変わっていない。

穏やかに笑う、誰とでも視線を合わせられる人。

始めて二人に揃って会った時、小さな子供であるモモに対して二人で屈んで話をしていたことが思い出される。

その二人と共に昨晩花火大会に行ったのなら、「恋人」という存在に憧れを抱いてもおかしくはない。

あかりにしてみても、あの二人はお似合いだ。



「残念だけど、いないのよ。結衣子さんたちみたいに素敵な人と出会えたらいいんだけどね」
「そっか、おねいちゃんにいないならヒナもまだまだ出来そうにないなー。昨日ね、花火も綺麗だったんだけど他にも素敵なことがあったの!」



洗い物を横で拭きながら興奮気味に話すひなたに相槌を打ちながら、あかりは嬉しそうに笑った。

今度島田か結衣子に会ったら、言ってみよう。

憧れの存在になってくれてありがとうございます、と。





ひなたを送り届けた後、結衣子は見上げるほどに大きな橋へと続く道の前に立っていた。

橋の向こうに目を凝らしてみると、痩せた長身の人影がこちらに歩いてきていた。

八月終わりとはいえまだまだ残暑は厳しく、ゆらゆらと影が揺れている。

こちらは木陰にいるため涼しく感じるが、彼にとって今はまさに蒸し風呂状態だろう。

木陰から数歩出てそちらに手を振れば、ゆっくり歩いていた人影が「あっ」というような表情をして慌てて駆けてきた。

ジーンズに長袖のシャツを腕まくりしたシンプルな格好だが、痩せている島田によく合っている。

二人きりで出かけるのは、久しぶりのことだった。

いつも島田の家で過ごしたり、家の前で話をしてみたりということはしていたのだがなかなか時間が合わなかったのだ。

結衣子がひなたを送ってきたのと同じように島田も桐山を送り届け、ちょうど二つの家の中間あたりにある橋のそばで待ち合わせをすることにしていた。



「すまん、てっきりあかりさんやひなたちゃんの家でお茶でも飲んでくるかと思ってたもんだからゆっくりしてた」
「お茶は飲んできましたよ。でも島田さんと約束があったので、すぐにお暇させてもらいました。今度またゆっくり行ってきますね」



これからどこに行くかなんて、決めていなかった。

島田の中ではいくつか計画を立ててみたものの、どれを選択すればいいのかまったくわからなかった。

結衣子がさきほどまで入っていた木陰に行ってみれば、暑さを少しだけ和らげることができた。

今日のような日は、室内に入っていたほうがいいだろう。

動物園という手も考えていたのだが、これはボツにした方がよさそうだ。

そうなると残りは水族館か映画か、美術館にでも行ってみるか。

舞台など見たこともないが、飛び入りで見てみるのもいいかもしれない。

考え付くものがありきたりなものばかりで申し訳ないが、女性と外に出たことなど多くはない。

それよりも休日の日は家で将棋の研究という行動を優先させていたのが災いした。

島田は考えていた計画をすべて列挙した後、隣で何か考えている様子の結衣子の顔を見た。

もしかして、彼女にとっては物足りないものばかりなのだろうか。

結衣子の性格からしてきっぱりと断ることはなさそうだが、言いづらそうにしている様子から見て乗り気ではないのだろう。



「無理に俺の計画から選ばなくてもいいぞ?結衣子の行きたいところがあるならそこに行こう」
「じゃあ、できたらでいいんですけど」
「うん?」
「棋士会館の中を見学してみたいです」



何度も棋士会館に入ったことはあるが、その中でいつも行く場所は決まっている。

正面玄関から入ってロビーに行き、階段を上がって二階の休憩室へ。

帰りも同じ道を通って、出ていくだけ。

島田たちがいったいどこで対局をしているのか、結衣子が行くたびに「やあやあ」と出てきてくれる会長はどの部屋にいるのか。

疑問は増えていくばかりだが、平日は対局をしているだろうしそんなことを言えるはずもない。

もしかしたら結衣子から会長に言ってみれば易々と見せてくれた可能性もあるのだが、会長である神宮寺がどれほど彼女がウナギを届けに来るのを楽しみにしているかわかっていないらしい。

島田からしてみれば予想外な申し出ではあったが、棋士会館なら暑くてたまらないということはないだろう。

今日は休日ではあるが、たしか子ども向けの一般開放の日だ。

昼ならばその子どもたちとも見学時間が合わないだろうし、いろいろなところが見られるはず。

ただ、そうなるとお昼を食べずにここからまっすぐ棋士会館へと向かうことになる。

見学が終わるころには午後二時頃になってしまうだろう。

棋士会館近くにある美味しいお店も、休日はやっていないかもしれない。

そこまで考えて、島田の頭に突如一つの案が思いついた。

一瞬にしてひらめいた案は、徐々に頭の中を明るく照らしていく。



「昼はウナギ屋に行かないか?結衣子が働いてるところの」
「お互いの職場見学ですね」



そうと決まれば、すぐに行動。

木陰から出れば、容赦のない光が肌を焼く。

しかし自然と触れ合った指先から伝わった熱は、不快な気持ちにはさせなかった。

太陽からの日差しには目を細めながらも、手を離すことはない。

少しでも長く触れていられますように。

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