梅雨の季節にもかかわらず、珍しく快晴の日だった。
彼の落し物と思われるブックマーカーのキャストをチャック付きの小さなポリ袋に入れ、早智は将棋会館を訪れた。
喫茶店から一駅ほど離れているその場所に着いたとき、額に玉状の汗が浮かんでいるのを感じた。
少し運動をしよう、と電車に乗らず歩いてみたのは正解だったようだ。
数階建てのビルのような造りからは誰も出てこず、本通りからも離れているこの場所には木々が風でそよぐ音だけが響く。
正面の道路をたまに通る車の走っていく音がやたら大きく聞こえる。
早智は一歩踏み出し、静寂のガラス張りの扉を押し開けた。
事務室の人と話をしていると、廊下の奥の方から一人の男性が現れる。
めがねを掛けた初老の男性は、昨日電話口で聞いたものと同じ声でハキハキと話した。
日本将棋連盟会長をやっている神宮寺だと名乗り、「立ち話もアレですから、とりあえずこちらへ」と奥の部屋へと通された。
黒い革張りのソファが二つ構えられており、その間には木目調のテーブルがどっしりと置いてある。
その上に載っているのはおかきやおせんべいなどの和菓子ばかりだ。
促されるままにソファへと座った早智は自分の名前を名乗り、宗谷の落し物を神宮寺へと手渡した。
「おそらく宗谷さんのものだと思うんですけど」
「ああ、たしかに。いつもあいつが持ってるのと同じものです。いや、わざわざすみませんね」
その後も自分で話を続けて豪快に笑う神宮寺の姿に、早智もつられて笑ってしまう。
昨日の電話先で突然呼び出されたこともあってか緊張していたのだが、目の前にいる神宮寺は終始和やかな雰囲気を醸し出している。
そして自分の知らない宗谷の話をしてもらうのも面白い。
でも、と早智の中で一つの疑問が生じる。
なぜわざわざ自分をここに呼んだのだろうか。
落し物を届けたにしても、他の部屋に通して話をする必要はあったのだろうか。
その疑問が相手に伝わったのかはわからないが、しばらくすると神宮寺の会話がピタリと止まる。
出してもらった紅茶に手を伸ばそうとしていた早智も顔を上げ、スッと手を引っ込めた。
「…で、一つ訊きたいことがあるんですが、いいですか」
「なんでしょう?」
「宗谷は…アイツは普段、あなたの前だとどんな感じなんでしょう?」
先ほどまでの笑顔とは打って変わり、神宮寺の顔は真剣そのものだ。
眼鏡の奥からこちらを真っ直ぐに見る目は、少しだけ宗谷と似ているように思えた。
この目の前の人物と宗谷は、宗谷が小さな頃からの付き合いなのだという。
その彼から見ても、宗谷という男はよくわからない。
何を考え、何に感情を動かされ、何を見て、何を聞いているのか。
一つだけわかることは、将棋が好きなのだということ。
しかし最近、一つ宗谷のことで変化があった。
どうも東京に来るたびに寄っている場所があるということ。
しかもそこは将棋のことなど何も関係がないような喫茶店。
「つかぬことをお聞きしますが、将棋のことはどれくらいご存知ですか?」
「ここで言うのも恥ずかしいんですが、やったことも見たこともないです。この前初めて宗谷さんが映ったポスターをまじまじと見たくらいで」
そして目の前に座るこの女性もやはり、将棋のことは知らないという。
三十付近の年齢であろうこの女性の髪は黒いままで、一見するとどこにでもいる少しおとなしそうな女性といった感じだった。
将棋のことしか頭にないような男が、なぜその喫茶店に通っているのか。
そしてどんなことをしているのか。
宗谷に訊いてもどこにある喫茶店なのか教えてはくれず、今回の落し物に関しては神宮寺にとってはめったにないチャンスといったところだった。
思わず電話を代わり、落し物を届けに来てくれと頼み、そして現在に至る。
先ほどの「あなたの前ではどんな感じか」という問いの答えに悩んでいるのか、顔を困惑させて考え込んでいる様子の早智に対し、神宮寺は口を開いた。
少しずつ、訊いていこうと。
「いやあ、いきなり変な質問をしてすみません。質問を変えますが、宗谷はあなたの喫茶店でどんなことをしてますか?」
「主には棋譜を見てますね。主には、というか他に何かしているところなんて軽食セットを食べているところしか見たことないんですが」
「軽食セット?」
「はい、いつも軽食セットを頼んでますよ。日替わりのケーキと紅茶のセットで…あの時しか宗谷さんの無表情が崩れないんです」
「ちょっと悔しいですけどね」と小さく笑う早智に、神宮寺は唖然とした表情を向けた。
しかしその表情はすぐさまやわらかいものになり、目の前で笑う彼女につられて彼らしく豪快に笑う。
無表情で、将棋のことでしか表情を外に出さず、将棋を離れた日常的なことでは神宮寺の前でしか表情を見せないような宗谷。
その彼が、彼女の前では表情を崩しているという事実。
その事実がどれほど驚きに値するほどのものか、目の前の早智は気づいてはいないのだろう。
そしていつかは気づく日が来るのだろうか。
「…アイツの体のことは何か聞いてますか?」
「体のこと?」
「…いやいや、アイツが対局の時に紅茶に入れてるのは角砂糖じゃなくてブドウ糖っていう話です。本当アイツ、体に最低限のものしか取り入れないやつで」
まだ宗谷は彼女に大事なことは話していないようだけれど。
そのこともまた、いつかは彼女に伝える日が来るのだろうか。
「まあアイツと仲良くしてやってください。将棋界でもちーっと浮き気味でね」
ちょうどお昼の時間帯に帰っていった早智の後ろ姿を見送り、神宮寺はふと壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。
今日の日付の下には、「宗谷、東京」と端的に書かれている。
今日も彼はあの喫茶店に行くのだろう。
先ほど「午後からはお店に出るので」と帰っていったばかりの彼女が待つ場所に。
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