彼の表情が崩れる瞬間を見ることが、早智は好きだった。
と言ってもその瞬間は本当に限られた一瞬にしか訪れず、早智はいつもその瞬間を見逃さないようにしている。
宗谷がいつも来るたびに頼む軽食セット、これはもう彼が店に入ってくれば今日の軽食セットのケーキが頭に浮かぶほどのものだ。
座る席も決まっており、彼が何も言わずとも早智はその場所へ案内し、形式的に「メニューはどれにしますか?」とは訊くものの、返事はいわずもがな。
いつも淡々と返してくる言葉は「軽食セット」のただ一つ。
そのメニューをキッチンで作り、再び宗谷のもとに戻れば彼が見ているのは毎回同じもの。
書かれている内容は変わっているのだろうが、棋譜の内容をそこまでまじまじと見たことはないため、詳細は不明だ。
テーブルに軽食セットのプレートを置いてみても気づかないことは当たり前のことで、早智はいつもプレートを支えるようにして傍らに立つか、または空いている席の一つに座る。
しばらくしてから、彼はその存在に気づくと静かに棋譜をビジネスケースにしまい、早智がプレートをそっと目の前に差し出せば、落ち着いた動きで紅茶のカップに手を掛ける。
そしてゆっくりとカップを傾け、わずかに口に含んでからすぐに口を離す。
それから喉へと紅茶は小さく流れ、彼の表情が崩れるのだ。
口端を小さく上げる、ただそれだけのことだけれど。
「早智ちゃんの紅茶が気に入ってるのかしらねえ」
「どうでしょうね、私はオーナーに教わった通りに紅茶を淹れてるだけですよ」
「うーん…まあ今度機会があったら私が淹れてみるわ、これで反応がなかったら悲しいけれど」
営業時間も終わり、オーナーと二人で隅から隅まで掃除を行っていると、宗谷のことが話題に出た。
6月になってもなお、彼はこの喫茶店に二週に一度のペースで通い続けている。
立派な常連さんだ。
今日も約二週間ぶりにここへやってきて軽食セットを頼み、店内に夕日が差し込んでしばらくすると帰っていった。
埃一つでも見つければ眉間にしわが寄るほどの綺麗好きのオーナーの許可が下りるよう、早智は店内の椅子やテーブルを動かしてモップをかけていく。
そうしていると、不意に窓際に物が落ちているのを見つけた。
ガラス張りの窓から見える外の景色は、夕方と夜の境目のような薄暗い明るさである。
その中で鈍い輝きを放っていた落し物だ。
「これ、なんでしょうね」
「うーん、何かしら…どこかで見たような…ああ、思い出した!それ、宗谷君が持ってるしおりに付いているキャストね」
黒い紐の先に付けられているのは、将棋の駒の形をしたシルバー。
そしてその黒い紐は彼がいつも持っているブックマーカーについているものであり、宗谷が取り出すたくさんの棋譜の中にそのブックマーカーは挟み込まれているのだという。
いつも軽食セットを用意している間に棋譜は取り出されるため、早智はそのブックマーカーに見覚えはなかった。
しかしオーナーがいうのだから、きっとそうなのだろう。
彼女の記憶力は六十代にしてなお抜群なのだ。
「次に来るときまで預かっててもいいんですかね?」
「そうねえ、いつも大事にしているみたいだったから早めに連絡は取ってあげた方がいいわね。連絡先、わかる?」
「いいえ」
「じゃあこの前貰った名刺に書かれたところに…って将棋会館が連絡先みたいね」
オーナーはいつも着ているエプロンのポケットから名刺ケースを取り出すと、宗谷の名刺を取り出した。
それを受け取り、早智は初めて知った。
「宗谷冬司」という彼のフルネームである。
そこに書かれた電話番号に早智が電話を掛けてみれば、落し物については将棋会館経由で宗谷に伝えてくれるという。
しかし電話が切れると思った矢先、事務職と思われる女性から年配の男性の声へと変わった。
そして彼は言った。
明日その落し物を棋士会館まで届けに来てくれないか、と。
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