上着を脱いだワイシャツ姿ばかりが目立つ人ごみの中で、一人浮いた存在がいた。
彼はこの梅雨の湿気が多い気候の中で、黒いスーツを身にまとっていた。
ブルーのストライプが爽やかなネクタイもきちんと締め、表情にも暑さを感じている様子は露ほどもない。
電車を降り、改札を抜けて駅を出ればすぐに真上から太陽の日差しが降り注ぐ。
暖かな、というよりはすでに熱いその日差しにはさすがに足を止め、宗谷はちらりと上を仰いだ。
今日は周りの雑音がうるさい日だ。
せわしなく行きかう営業中のサラリーマンらしき影や、買い物に来ているらしい主婦同士等、平日の昼間は小さな影が驚くほど少ない。
しかしそのせいか、彼らの利益を追求している声や、裏に何をはらんでいるかわからないうわべだけの会話が純粋さのかけらもなく、余計にうるさく感じる。
こんな余分な音、聞こえない方が集中できていいのに。
「宗谷さん?」
煩わしいとしか感じていなかったその世界に、一つだけ飛び込んできた声があった。
初めて聞いた。彼女が自分の名を呼ぶ声を。
体のどこかが大きく脈打つのを聞いた。
今まで聞いたことがない音だった。
振り返っていないため、背後から声を掛けてきたのかはだれかはわからないのだが妙な確信があった。
ゆっくりと振り向き、ぱちりと合った視線に彼女は微笑む。
働いている喫茶店の制服姿を見慣れていた宗谷にとって、私服姿の早智に瞬間的に目を奪われてしまう。
これは真新しさから奪われたのか、それとも―…。
「後ろから声かけちゃってすみません。宗谷さんかな、って思ったのでつい」
「今日、お店は?」
「午後からなので、今から行くところなんです。宗谷さんも向かうところですか?」
小さく頷いた宗谷に一緒に行ってもいいかと尋ね、さらに頷いた宗谷の隣へと並ぶ。
もともと将棋会館と早智が働く喫茶店は一駅分しか離れていない。
だんだんと日差しも強くなってきていたため、早智は将棋会館から駅へと足を運び、一駅乗ったところで降りた。
そして改札を通り抜ければ、少し先でこの時期にもかかわらず真っ黒なスーツを着こなした人影が空を見上げていた。
片手に下げられたのは、同じく黒いビジネスバッグ。
日光で輝いているのは、ミルクティーのような色をしたやわらかい茶髪。
間違いなく、宗谷その人であった。
「宗谷さんが今日来てくれるなら将棋会館に持っていくのは失敗でした」
「将棋会館?」
「はい、今行ってきたんです。宗谷さん、ブックマーカーのキャストなくしませんでした?掃除をしていたら喫茶店で見つけたんですけど」
「…そう」
「まさか二日連続で来てくれるとは思わなくて」
「東京に連日用事があったから。今日帰る」
キャストをなくしたことは、宗谷も昨日の夜の時点で気が付いていた。
喫茶店で棋譜を見たときにあったことはたしかなため、間違いなく喫茶店に忘れたんだろうということもわかっていた。
しかし考えてみれば喫茶店の電話番号も知らず、さらには早智の連絡先も知らない。
幸いにも明日も東京にいる予定があるため、忘れ物を取りに行くついでにもう一度喫茶店に顔を出そうという結論に至った。
そう決めてベッドにもぐりこんだ自分の口端に笑みが浮かんでいたことに、彼は気づいてはいない。
「たぶん会長の神宮寺さんが持ってると思うので、今度会うときにでも…あっ、今から私がとってきましょうか?」
「…連絡先、教えて」
「え?」
もう喫茶店は目と鼻の先であり、本通りから外れたこの通りは駅前に比べてずいぶん静かだ。
もちろん人がいることにはいるのだが、先ほどのせかせかとした会話に比べて和やかだ。
昔ながらの住宅街に住んでいる高齢の人が比較的多いからだろうか。
早智の驚いたような声が、宗谷の耳に優しく響いてくる。
「連絡先、ですか?」
「知らないと不便だってわかったから。だめ?」
「いえ、いいですけど…宗谷さんはいいんですか?」
「かまわない」
携帯電話を持たない宗谷は京都の実家の電話番号を、早智は携帯電話の番号を。
お互いに小さなメモ用紙に書き、通りの端で交換した。
メモを受け取った時に宗谷の口端が小さく上がったところを、早智は驚いたように見た。
紅茶を飲んだ時にしかみせなかった表情を彼がしている。
何かに掴まれたように苦しくなった自分の心臓に、早智が一番驚いた。
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