少し汗ばむような陽気だが、日陰に入ればまだひんやりとした涼しさを楽しむことができる5月の中旬。
京都駅発の新幹線に乗り込み、宗谷は折り畳みテーブルの上に土産を置いた。
普段暮らしている家は京都の銀閣寺近くにある宗谷であったが、所用で二週に一度は東京に出向いている。
その理由は主に将棋界のことなのだが、棋士会館に行くのは数ヶ月に一度ほど。
そして今年の2月から、東京に行った日には必ず行くといってもいい場所ができた。
目の前に置かれたこの土産も、その場所へのものなのだ。
「いらっしゃいませ…あ」
少しさびれた通りの喫茶店に入れば、もう見慣れた顔の女性が出迎えてくれた。
彼女から直接名前を聞いたことはない。
しかし胸辺りについている名札に「高峯」という文字があるということは、苗字はこれで間違いないのだろう。
宗谷自身ただの一度も、彼女の名前を呼んだことはないけれど。
そして自分の名前も彼女に明かしたことはない。
あの冬の日、彼女が腕を掴んでいなかったら自分はどうなっていたのだろう。
その時はその時だとは思うが、やはり感謝せずにはいられない。
そう思い、記憶を頼りにその1か月後にこの喫茶店に通い始め、今では東京に来た時にここに来なければ物足りない気持ちになるほどだ。
座る場所は、初めて来たときから変わらない。
通りの良く見えるガラス張りの窓のすぐ近くの四人掛けテーブル席。
今日も案内されたその席からは、柔らかな午後の日差しが降り注ぐ通りと、真っ青な空が見える。
ここから同じ景色を彼女がよく見ていることを宗谷は知っていた。
喫茶店に入る前、ガラス張りの窓の向こうに彼女の姿があることはいつものことなのだ。
「メニューはどれになさいますか?」
「…軽食セット」
「お好きなんですね」
少しだけ笑った早智の顔を、宗谷は小さく目を見開いて見た。
初めて彼女に会った時は怒ったような顔ばかりさせてしまったし、その後喫茶店に通ってもどこか躊躇いがちな雰囲気があった。
宗谷の前で初めて笑った顔を見せた早智も自分自身に驚いたようで、目を大きく見開き手を口に当て、逃げるようにキッチンへと歩いていく。
キッチンに消えた後ろ姿をじっと見るかのように視線を動かさない宗谷に対し、オーナーは喉を鳴らすかのように笑った。
「……これ、お土産」
「え?」
「対局で地方に行ってきたから、その時のお土産」
「対局?ああ、じゃあやっぱり…」
そろそろ帰ろうかと立ち上がり、傍らの椅子の上に置いていた黒いビジネスバッグの中からお土産を取り出す。
地方特産のフルーツが使われた、小さめのパイがたくさん入っているもの。
宗谷が口に出した「対局」という単語に、早智はついに確信した。
この前駅で見たあのポスターは、やはり彼だったのだろう。
「宗谷さん、ですね。この前ポスターで見たんです」
「……そう」
唐突に呼ばれた自分の名前に、宗谷は心の中ではざわめきが広がるものの、表情には出さなかった。
いつもと変わらない無表情に、否定はしない答え。
表には出なかったせいか、早智は宗谷の真意には気づかずに会計を済ませ、いつものように店の外で彼を見送った。
そして彼もまた、何事もないかのように去っていく。
「ありがとうございました」
早智の声に見送られ、宗谷は静かに音のない世界を行く。
すれ違う人の声も、街灯のテレビの音も、自分の耳にあてられたイヤホンからも流れるものはない。
その世界は十数年前からたびたび訪れる場所であり、宗谷自身も慣れていること。
むしろその世界のほうが自分には合っているんじゃないか、とさえも思う。
しかしあの時、彼女の口は自分の名前を模った。
「そうや」と確かに口が動いたのを、自分の目でしっかりと見たのだ。
どんな声で自分の名前を呼んだのだろう。
どんなイントネーションで、どれくらいの声量で、呼んだのだろう。
何度か喫茶店に通う中で彼女の声を聞いたことはある、しかし自分の名前を呼ぶ彼女の声は想像したことさえなかった。
次に喫茶店に行くときは、聞こえる世界になっているだろうか。
自分の名前を呼ぶ彼女の声を聴きたいと、そう思った。
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