「そういえば宗谷、お前…あの傘は返したのか?」
「………」
「宗谷」と呼ばれた男が小さく頷けば、初老を迎えた男性は「そうか」とだけ返した。
その声が聞こえているのかいないのか、宗谷は再び自分の世界に入るかのように目を閉じる。
宗谷と男性の間に置かれた茶菓子は、ほとんど減ってはいない。
宗谷がずぶ濡れになって将棋会館に帰ってきたのは2ヶ月ほど前のことだった。
対戦の時に紅茶に入れるブドウ糖を買ってきてほしいと初老の男性―…会長の神宮寺に頼んだ宗谷であったが、名人戦の告知に忙しい神宮寺は「自分で買ってこい」と一喝。
その言葉を受けて宗谷はひっそりと棋士会館を去ったが、そこからが大騒ぎだった。
将棋界の神様とも呼ばれる青年が、行方知らずになってしまったのだ。
実際は棋士会館に近いドラッグストアにブドウ糖を買いに行っただけだったのだが、なぜか会館周りのドラッグストアではすべて売り切れ。
そして自分の頭の中に入っている周辺の地図を頼りに歩いていれば、いつの間にか一駅分近く歩いたドラッグストアまで足を延ばしていたのだ。
途中で降ってきた季節外れの雨にも頓着せず、着物姿のまま出歩く一人の男。
ブドウ糖が買えたことで頭の中は周辺の地図だけではなく、将棋の戦法まで考えるようになってしまい、目の前への注意が怠りがちになった。
その危険な状況で出会ったのが早智である。
今まで持っているのを見たことがない傘を差して帰ってきた宗谷に会館職員は安堵し、そして和服の状態を見て絶句した。
最高級の和服の肩も何もかもがずぶ濡れである。
名人戦ポスター用の写真を撮る日だったにも拘わらず、であった。
「まあちゃんと返したならいいんだけどさ。ちゃんと菓子折りとかつけて返したか?傘だけ返したわけじゃないだろ?」
「………あ」
「…お前なあ…」
神宮寺の言葉に、閉じていた瞼を小さく開ける。
無表情が崩れたその顔にため息を浴びせ、神宮寺はガリガリと頭を掻いた。
20年以上の付き合いになるというのに、いまだにこの青年の思考回路は読めない。
幼いころから「子供らしい姿」を一度も見たことがないような気がする。
誰かと一緒に遊ぶとか、悲しいときに泣くとか、ましてや愛しい異性と一緒にいる姿など想像することがあまりにも難しい。
「まあなんだ、もうすぐ名人戦であっちゃこっちゃ行くから、その時にどこかで土産でも買って行ったらどうだ?相手は隈倉だし、そんな余裕ないかもわからんが」
「………」
再び小さく頷き、宗谷は再び自分の世界に入っていった。
その様子を見て小さく息をつき、神宮寺は静かに部屋から出て行った。
喫茶店の仕事を終え、夜8時には帰路につく。
早智が働く喫茶店から自宅までは電車で2駅ほど。
人の乗り降りの激しい中で器用に体を使いながら人ごみをかき分ける。
ふと、特に注意を向けたつもりもなく、視界の端に映りこんだポスターがあった。
駅構内の壁に貼られる多くの掲示物の中の一枚。
ポスターにしてはなかなか立派なつくりのそれになぜ立ち止まってしまったのか、その理由は数秒後にわかった。
「……あっ」
二人の男性がそれぞれ和服姿で向かい合うように並べられたそのポスターの中にいた一人に、妙に見覚えがあったのだ。
淡い茶髪に銀縁の眼鏡、写真からも伝わる不思議な雰囲気。
傘を返しに来てからというもの、二週に一回ほどのペースでやってくる男性。
いつも喫茶店に来て、軽食セットを頼んで棋譜をいつも見ている姿から察するに、将棋が好きなのかなとは思ってはいた。
しかしまさか、将棋を職業にしていた人だったとは。
『第69期名人戦』
と書かれたそのポスターにしばらく見入ってしまう。
ポスターの中で何の表情もなく伏し目がちにしている彼の目には、いつも何が映っているのだろう。
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