一ヶ月前のあの日とは打って変わり、今日は快晴だ。
そうはいっても冬の空気は冷たさも含んでいて、日陰に入れば凍えてしまいそうだ。
いつものように店内から外を眺めていると、目の前の歩行者信号が青く点滅しているのが見えた。
ふらふらと赤信号に突っ込んでいった青年をギリギリで止めたのは、もう一ヶ月ほど前のことだ。
「そういえばあの和服の男の人、どこかで見かけたことがある気がするのよねえ」
「え、本当ですか?」
「まあ私の記憶なんてアテにならないけどね。あの時の早智ちゃんはかっこよかったわあ」
「あはは、ありがとうございます」
お客さんがいないという時間はないのだが、この喫茶店はどんなに繁盛している時でもまったりした時間が流れている。
それはカウンターの奥に座っているオーナー独特の雰囲気の結果なのかもしれない。
いつものように道に面したガラス張りの窓から外の様子を見れば、今日の人通りはまずまずなようだ。
もうすぐ3月も中旬、そろそろ寒さが緩み始めても良いころ。
これからどんどん人通りも増えるだろう。
春になったら何か始めようかなあ、とぼんやりと考え始めた矢先、客の雑談とジャズがBGMだった店内に小さな鈴の音が鳴り渡った。
反射的に足が動き、小さく笑顔も作られる。
何年もやっていた当たり前の習慣だ。
「いらっしゃいませ、何名様………あ」
そこには先ほど話題に出たばかりの男性が立っていた。
一ヶ月前とは違い、膝裏まで届くような真っ黒なコートを羽織り、男性は静かにたたずんでいた。
すべてを飲み込んでしまいそうな冷静な瞳、無表情は変わっていない。
男性は静かに頭を下げ、借りていた傘を差しだした。
「遅れてすまない、助かった」
「あ、いいえ、こちらこそわざわざすみません」
まさか返ってくるとは思わなかった、というのが正直な感想だ。
この男性自体が、一つの場所に留まっていないような、常に先に進んでしまっているような気がしていたからだ。
触れていたはずなのに、気づいた瞬間には数歩先にいる、そんな感じ。
傘を受け取り、思わずまじまじとその傘を見てから顔を上げれば、男性はこちらを見つめたまま動く様子がない。
早智もどうすればいいのかと目を合わせたまま固まっていれば、後ろからゆったりとした声が掛かった。
「まあ、立ち話もアレだからコーヒーくらい飲んでいったら?」
「ああ…えっと、カウンターとテーブルがありますけど、どちらがいいですか?」
「…テーブル」
喫茶店にはカウンター席が4つ、そして四人掛けのテーブル席が2つある。
本当に小さな喫茶店なのだ。
テーブル席のうちの1つは常連客のおば様二人組に使用されているため、もう一つのテーブル席へと男性を案内する。
早智が外を窺うときにいつも使っている椅子があるテーブル席だ。
偶然か否か、男性は早智がいつも座っている椅子へと迷いなく進んで腰を下ろした。
真っ黒なコートの下に着ていたものもまた、真っ黒なスーツであった。
「メニューはこちらです」
「君が決めて」
「はい?」
「特に希望はない、君が決めてくれてかまわない」
「えーと…」
「軽食セットでいいんじゃない?ちょうど3時になる頃だから」
「軽食セット…えっと、チョコブラウニーと紅茶ですが、それでよろしいですか?」
オーナーの助言がなかったなら、いったいどうなっていたことだろう。
男性に確認してみれば、目を閉じたままで彼は小さく頷いた。
希望もないのになぜ店にまで立ち寄るのだろう、冷やかしなのだろうか。
やはり不思議な人だ、と思いながらキッチンへと向かえば、珍しくオーナーがカウンターから顔を出した。
カウンターの奥にキッチンがあり、仕切りは暖簾だけだから簡単に顔を出せるといえば出せるのだけれど。
「不思議な雰囲気もった人ねえ」
「オーナー、聞こえますよ」
「大丈夫大丈夫、何か熱心に始めたみたいだから」
自分も同じような感想を持ったが、「不思議な人」と言われているところを聞いて嬉しいと思う人は多数派ではないだろう。
ひらひらと手を振りながら答えるオーナーの言葉に疑問を覚えながらも軽食セットを準備し、男性のテーブルに近づけば、やっと言葉の意味が分かった。
たしかに男性は、数枚の紙を取り出してそこにじっと視線を落としていた。
一枚一枚、重ならないように置かれた紙。
わずかに残されたテーブルの面積になんとか軽食セットを載せてみるも、男性が気づく様子は微塵もない。
さて、どうしたものか。
おそらく自分の世界に入り切っていて、こちらの声は届きそうにない。
かと言って軽食セットをこのまま不安定な場所に置いておくわけにもいかず、早智は再び途方に暮れた。
なんだかこの男性とかかわっていると、自分が狂わされるばかりだ。
「早智ちゃん」
「はい?」
「たぶんその方、いつかはこちらの世界に帰ってくるから大丈夫よ。それまではたぶん、微動だにしないからそのまま置いておいても大丈夫」
「………でも」
「んー、まあ不安なら早智ちゃんがそこの席に座って軽食セット押さえてればいいんじゃない?」
男性の斜め前の席にそっと座ってみるも、その様子にさえ気づく様子はない。
ちらりとオーナーを見れば、彼女はそれでいいとでも言うように微笑を浮かべて小さく頷く。
軽食セットのプレートを手でやんわりと押さえていれば、やがて男性は静かに顔を上げた。
そしてその瞳にはっきりと早智が映り、男性は特に驚いた表情もせずに淡々と紙を片付け始める。
出来たスペースに軽食セットを置けば、何も言わずに紅茶を一口飲んだ。
小さく口端を上げて頷いた彼の表情を、初めて見た。
無表情が崩された瞬間だった。
「…それじゃあ」
「ありがとうございました」
軽食セットを食べ、再び何枚かの紙を取り出して自分の世界に旅立った後、男性は帰って行った。
何枚かの紙の上には、新聞によく載っている「棋譜」というものが並べられていた。
平日の午後に棋譜を眺めたり、通りを歩いてみたり、いったい彼は何者なのだろう。
去っていく黒い背中は、夕焼けの中に消えて行った。
← / →