籠屋本編 | ナノ

三.菊花百景
110.



 日が沈み、廊下にはいつの間にやら壁掛け行灯に火が灯りうっすらと心地好い香の香りが漂っていた。大瑠璃の部屋の白檀とは違う、はたまた宵ノ進の花の香りとも違う僅かに甘い眠りを誘うような――。
 一度三階の部屋に行くのも億劫で、羽鶴は鞄を持ったまま香炉に案内された道をそのまま戻って座敷へ向かった。手伝い等をして歩いてはいるが、広い籠屋の中は入り組んだ部分があり殆ど把握できていない。迷子になったらご迷惑極まりないのでわかる道を歩いて手間をかけない気でいるが、雨麟に頼み込んで今度は詳しい案内をしてもらいたいとも思う羽鶴である。
 灯りの漏れる座敷からは食事の良い匂いがした。

「あ、はつるおかえり……ごはん、たべろ……」
「ただいま……? 遅くなってごめん、え、待っててくれたの……?」
「おーっと会議でなるべくみンなでご飯食べたい〜って駄々こねたンはどこの羽鶴だっけ〜?」
「はいすいません僕ですみんなありがとう恥ずかしいい雨麟茶化さないでええ!!」
「羽鶴さん今日は香ちゃんの天麩羅なんですよ〜、甘味が芋羊羹でですね!」
「ンフフ白鈴がおなかすいたってよ〜! はよ座れ羽鶴〜!」
「雨麟ったらああ……!! 試作のお菓子に使った残りのお酒を飲んじゃったの、宵ノ進に伝えますから……!」
「ギャー!! ヤダぁ!! 黙っててぇ!!」
「ごはん、たべろ……」
「はい」

 無表情の香炉が座布団を指すとその場の全員がおとなしく自分のお膳の前に座り「いただきます」と箸を取る。美味しいご飯は強い。この場の誰もがそれを理解している。
 秋野菜と山菜の天ぷらを塩やお出汁でいただきながら、ご飯を頬張りあっさりした吸い物へ口を付け、とどちらかといえば食べるのが早い方の羽鶴が栗の天ぷらを口へ入れて感動している頃、静かに開かれた襖からひょい、と前髪を斜めに切り上げた黒髪が顔を出した。

「こーちゃん朝日ちゃんの分もある〜?」
「あさひ……」
「朝日?! 風邪は!」
「起きたら治ってた! お風呂上がりの朝日ちゃんだよ!」
「ああなるほどだから髪の長いとこ見つからないんだ、切ったのかと思った」
「羽鶴さん口元にお米がついてますよ」
「え、あ、はずかし……! 白鈴ありがとう」
「あさひのぶん、あるからすわってろ……やみあがりだから……」
「はーい! 病み上がりの朝日ちゃんでぇーっす!」
「朝日まだ寝てた方がいいンじゃねぇか?」

 普段左右と首の後ろから二本ずつ垂れている長い黒髪を一括りに結わえている朝日は夜着の上に重ねた折鶴柄の派手な羽織を握りながら座布団の上へ座り込む。香炉が運んできた卵粥にお礼を言って冷ましながら食べる様子に羽鶴はよかった、と思ったきり言葉が浮かばなかった。大切なことに変わりはないのだが、どうも言葉を選んで並べることは得意ではない。幸い、ここの人々はそれさえ受け入れてくれている。

 お膳を平らげた羽鶴の頭の片隅には未だ食事をしていないであろう黒髪の姿があった。

(食べるかなあ……持って行くのは迷惑かなあ……宵ノ進は寝てるし多分ほっとかないよなあ……鉄二郎さん来るって言ってたし、邪魔しない方がいいよなあ…………僕あいつのこと気にしてばかりだな……)

「そういえば、虎雄様は何してるの?」

 朝日の声に我に返った羽鶴がそちらを向くと、特に宛もなく発した言葉に白鈴が答えていた。

「虎雄様は鉄二郎さんと長ーい話し合いをしてますよ、さすがにそろそろ終わるのではないでしょうか……?」
「なるほどなるほどー、それでバタバタしてたんだー。朝日ちゃんも虎雄様と長ーいおしゃべりしたい〜!!」
「勘弁したれや……後で気になってる紅やら香水やら纏めて買うとか言ってたからよ……」
「わ〜!! 隣町に行くのかなぁ!? 朝日も付いていきたいなあ!」
「何でもあるなぁ隣町」
「羽鶴はたまに行ったりしてるンだろ? シェイクが飲みたいシェイクが」
「あんまりよく覚えてないからなあ。榊みたいにいろんなところに出かけ歩いたわけじゃないし……ていうか雨麟シェイク好きなんだ?」
「つつ兄になー、連れてってもらった時おおこれはなンぞやって事で一緒に飲ンでみたら俺は好きでよ。つつ兄は「冷たッ!」てあンまり好かンかったから、連れ出すのも悪ぃからよ。遠いしな」
「鶴ちゃんデートのお誘いだ!」
「デートじゃねぇわ床につけやぁ!!」

 完全にからかい混じりの声と視線を向けた朝日に雨麟がくわりと吠えては無表情の香炉が椀物を置き、蕩けるような幸せ心地の白鈴が芋羊羹を小さく切っては口へ運んでいる。ぼんやりと、雨麟と朝日のぎゃんぎゃんしたやり取りを眺めながら羽鶴も芋羊羹を頬張ると、口当たりの優しい仄かな甘味が広がって、白鈴が何に心を溶かしているのかほんの少し知れた気がして緩やかな心地になった。

(やっぱり少しでも持って行こうかなあ……)

 同じものを食べてどのような心地になるのかを知りたい。できれば食事を共にしたい。ああ、これはあいつが嫌う執着だろうか。食べないと聞いた上で食事を持って行くのは突っ返されてしまえば香炉が傷ついてしまうのに。それはいけない。宵ノ進と比べられることを気にしていた香炉に更なる打撃は不要だ。

(僕は、勝手でいやになる)

 何が良くて、何がいけないのか時折わからなくなる。何が自分の願いで、何が本心からずれたものであるのか。
 したいからそうしたことでさえ、良かったのだろうかと心臓が跳ねる心地になることもある。もう戻ることなどないというのに、あれこれと頭の中だけが忙しなく鳴くのだ。
 すべてが嫌だった。他者の表情を見る事さえうんざりしていた。あまり表情の変わらない友人を見ていると落ち着いた。いつも気遣いを幾重にも重ね眉尻を下げて名を呼ぶ母のような表情もせずに接してくれる友人になら会いに行こうと思った。うだるような暑さ、視界と頭の中がくらくらして、いつもけたたましい声が止んで何も思わずに済んだ。その何も無いまっさらな状態が心地良かった。日陰で休みながら遅れて着いたとしても、友人はいつもと変わらぬ顔を寄越すのだろうと僅かに期待した。音の去ったうだる夏、ぼやけた視界に何かが滑り込んで来てからの記憶は無い。

 はあ、と知らず息を吐いた羽鶴は友人の顔を思い浮かべた。自分一人では籠屋の謎現象について纏め上げるには途方も無い月日がかかる気がする。榊に話す言葉を纏めようと考えてみてもこのざまであるから、一度榊を交えて作戦会議でもしたらいいのではなかろうか。
 ちら、と雨麟の方を見れば芋羊羹を放り込んで気の抜けたまん丸の天色の眼がぱちくりと瞬きしたところだった。芋羊羹を味わい飲み込んで、茶を一口啜った雨麟は呑気な声を上げる。

「残念ながら羊羹のおかわりは無えぞ」
「ごめん食べ盛りでつい見ちゃった」
「鶴ちゃん朝日ちゃん飴玉なら持ってるよ〜激辛、中辛、大辛、激甘!」
「僕には刺激が強すぎる……」
「私金平糖なら……」
「俺は焼酎なら……」
「つけものなら……」
「ごめん僕が悪かったゆるして」
「で、羽鶴はどーしたいンよ?」

 けらけらと笑う雨麟がそのままの明るさで問う。
 びくりとして言葉のつっかえた羽鶴は頭の中まで言いたいことがあちこちに散らばって、視界にぼやりと映る朝日や白鈴、香炉の視線に狼狽えて、雨麟を見るとぱっと大きなまん丸の天色の瞳が途方もなく大きな空に思え呼吸が小さくなるのだが、ピンク頭が横から軽く小突かれたので驚いて丸まりかけていた背筋が伸びた。




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