流星街にて~赤ちゃんできたかも~

左腕の添え木が取れて間もなく、フェイタンはひどい吐き気に襲われた。
「うぇ、」
便所に駆け込んで胃の腑の中身をひっくり返す。横隔膜が引き攣る。消化中のパンとスープが逆流して喉を焼き、勢い余って鼻腔にまで流れ込み、ツンとした痛みと窒息感に襲われる。生理的な涙を滲ませながら吐瀉物を絞り出す。目前にある便器が気持ち悪く思えて、ますます嘔吐中枢が刺激される。
この街に下水はない。当然便所は汲み取り式だ。一応の浄化処理は行っているからさほどの悪臭はないとはいえ、顔面の直下に溜め込んだ屎尿が存在するという事実が嫌悪感を呼び起こす。
たまらなくなって彼女は再び嘔吐した。未消化の食物を出しきって、胃液を出し尽くして、吐くものがなくなっても暫くえづき続けた。
「……はぁ、」
ようやく吐き気が治まると、えもいわれぬ倦怠感に襲われた。汚れた顔を洗おうと壁伝いに立ち上がってフラフラと歩みを進める。一歩進むごとに眩目感に襲われながら、やっとの思いで洗面所に辿り着く。
吐瀉物まみれの口内を清めようと水を啜る。カビ臭いような土臭いようなゴミ臭いような。水に染みついた土地のにおいが気になって、また気持ち悪くなった。
ともあれどうにか体裁を整えてベッドに倒れ込み、深い溜息を吐きながら考える。
これは一体どうしたことだろう。体調が悪いなんてレベルじゃない。異常だ。
何がいけなかったのだろう。毎晩のように裸で寝ているせいで風邪でも引いたのか。何かの食べ物に中ったのか。それとも流星街の不潔な空気を体が受け付けなくなったのか――

(生理が来てない)
考えるまでもない。答えは明白だ。避妊もせずに性行為に及んだ。妊娠して然るべきである。
彼女はもう一度深く息を吐き出しながら、ある人物を思い浮かべた。
胎児の父親である男……ではない。ある女だ。薄く短い胴。ひょろひょろと長い痩せた手足。女郎蜘蛛のような体をした鷲鼻の女。
その女は母親になりたがっていた。産み落とした我が子を慈しむという、ささやかな夢を見ていた。
幼い時分は特に強く憧れていたようだ。幻影旅団を結成し、盗み、殺し、罪を重ねる中でその夢は埋葬したようだが、心の奥底には未練が燻っていたらしい。
当人がそう語ったことは一度もない。今際の際に放った念の弾丸によって、その女の想いと一生涯の記憶を引き継いだのである。

パクノダは死んだ。母親になることなく。
フェイタンは生きている。腹に子を宿している。時が来れば母親になる。
歓喜は全く湧いてこない。母になりたいとは露ほども思わない。自分の子供なんて興味がないし、そんなものに注いでやる愛情も、払ってやる犠牲も、鐚一文持ち合わせていない。せめてもの情けとして苦痛が最小限で済むうちに水に流してやれたらいい。

産みたくない?胎児を殺したい?
そうでもあり、そうではない。
パクノダは死んだ。ウボォーギンも死んだ。次にいなくなるのはフィンクスかもしれない。そうなる前に彼が生きた証を遺すことができる。そう思うと、腹の子を生かすことは決して無意味ではない気がする。

まだ兆候のない下腹部を擦りながら考える。
産むべきか産まざるべきか。
彼に伝えるべきか黙っておくべきか。
考えているうちに睡魔が訪れる。
眠い。これも悪阻の症状だろうか?まぁいい。今はただ眠りたい。何も考えずに泥のように眠ってしまいたい。

ひとまず我が子のことは意識の外へ追いやって、毛布を被る。
それこそ胎児の如く体を丸めながら、浅い微睡の中へ沈んでいった。

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