アンバランスor――U


 会うのは三日後の約束だった。
 だから、視線を感じてふりかえった先に、アルジーの姿を見つけて驚いた。夢ではないかと自分の目を疑い、それから呆然として見つめてしまった。
 アメリカでの研修もそろそろ終わりに近づいてきた三月の終わり。彼がニューヨークを訪れるのは知っていた。僕に会うために来るのだから。
 でもまさか、こんなところで顔を合わせるなんて思いもしなかった。いや、アルジーが顔を出してもちっともおかしくはないのだ。
 ニューヨークの名門プリチャード家の舞踏会――華麗に装いを凝らし、優雅に踊るひとびと、或いは壁際に立ち、または椅子にかけて談笑する人々のなか、むしろ僕の方が浮いている。できるだけ目立たないように部屋の片隅に立っていたのだけど、アルジーはいつから気づいていたのだろう。
 彼を見つめたまま、どうしようと困惑し、それから突然気づいた。
 アルジーは少しも親しげではなくて、それどころか拒絶するみたいな冷たい表情を浮かべている。そしてふいと視線を逸らしてしまった。
 頬がカッと熱くなるのを感じた。心には氷を放り込まれたようで身がすくむ。目を逸らすことができないまま、 僕は僕を視界から締め出した彼を見つめていた。
 アルジーは通りかかったボーイのトレイから、シャンパングラスをとると、声をかけてきた壮年の紳士とおそらくはその夫人の方に向き直り、それきり僕の方などちらりとも見なかった。。
 やっと僕も目を逸らしたとき、肩を叩かれた。ふりかえるとはしばみ色の瞳と間近で視線がぶつかった。
「ミスター・カーライル」
「バート、楽しんでいるかい?」
 僕をこんなところに連れ出した張本人、ケヴィン・カーライル氏だ。ニューヨークの名士のひとりで、年は二十七歳。ハンサムで陽気なひとなんだけど、奥さんの雇った殺し屋に命を狙われていると思い込んでいる。三週間ほど前に、ピンカートン社に警護を依頼しにきて、担当に僕を指名したのだ。
 以後、僕は警備という名目で、ほとんどカーライル氏につききりだった。こうした社交の場にも何度か引っ張り出されていた。
「バート、前にも言ったけど、きみは僕の英国の友人ってことになっているんだよ。もっと親しげにしてほしいな。名前だってね」
 そう、人前では彼をファーストネームで呼ぶ約束をさせられている。今も僕が言い直すのを待っているようなカーライル氏の視線に負けて、小さく彼の名を呼ぶ。
「ケヴィン」
 よくできました、とカーライル氏はにこりと笑う。こんなことは以前にもあった。そう、アルジーと出会った頃、同じような要求をされた。あれはほとんど嫌がらせの一種だったけど。 
「ところで、ウォレス家の令嬢がきみに興味をもっているようだったよ。ダンスを申し込むなら――」
「ダンスは苦手だから」
「そんことばかり言うんだね。やはり、僕が教えてあげようか」
「遠慮しておきます」
 僕はため息まじりに答える。そしてこっそりとアルジーの姿を探す。今流れているのは、シュトラウスのワルツだ。アルジーは誰かと踊っているだろうか。さっきの冷たい眼差しを思い出すと、胸が苦しくて、息がつまりそうな気がした。
「それにしても、きみが僕のボディガードを引き受けてくれて、本当によかったよ」
 僕としてはちっともよくはないし、納得もできない。カーライル氏が僕を指名した理由というのが、僕が英国からの研修生で、ある程度上流階級のマナーに通じており、かつこちらではほとんど顔を知られていないからなのだが、そんなことだけで経験不足の僕を選ぶのはあまり賢い選択ではない。
 もっとも探偵社で僕の指導をしてくれているタッカー氏は、楽観的だった。
「大丈夫。カーライル氏が命を狙われているなんて事実はこれまでの調査の結果、まずありえない。あのひとの思い込みだという可能性が強いんだ。もちろん今後も調査はつづけるが、とりあえず、きみの役目は」
 慰めるように、僕の肩をぽんぽんと叩いてタッカー氏は、僕の仕事を要約した。
「少しの間、彼のご機嫌を損ねないようにお守りをしてくれることかな」
 カーライル氏と氏の会社は、ピンカートン社にとって上客なのだ。
 探偵社にとっては、正式な一員ではなくて、たいして戦力にもなっていない僕がいなくても困らないし、カーライル氏のご機嫌をとれるならばそれにこしたことはないってことなんだろう。
 そしてこの三週間でわかってきたのだけど、カーライル氏にしたって、本気で命を狙われているとは考えていない。奥さんや親類との不仲が原因で少しばかり神経が参ってしまい、こちらの社交界では誰の派閥にも属さない人間を話し相手としてそばにおきたいと思っているのだ。
 曲がかわり、カーライル氏がダンスを申し込んでいたご婦人とホールの中央に出て行くと、僕は華やかな空間をそっと抜け出した。
 カーライル氏を狙う奴がいたとしても、こんなふうな衆人環視のなか、手出しをしないだろうし、とにかく気持ちをおちつけないと、何かとんでもない失敗をしてしまいそうだった。
 廊下を進むと、夜食とは別に軽食を支度してある部屋の扉が半開きになっていた。
 じき夜食の時間のせいか、誰もいない。僕は少しだけそこで休むことにして、小さく息をついた。煌々たる光を放つガス灯の熱のせいで、ホールはむっとした熱気がたちこめているのだけど、この部屋は涼しくてそれだけでもほっとできた。
 なんだかひどく疲れた心地で椅子にかけた。
 アルジーのことを思った。どうしてあんなふうに冷たい目をしたのだろうか。僕が仕事で来ているのを察して、わざと知らないふりをしてくれたのかもしれない。それでも――
 なんだか気持ちが落ち込んでいく。
 しばらくぼんやりしていたけど、ずっとここにいるわけにもいかないから、ホールに戻ろうと立ち上がった。
 部屋の扉に手を伸ばしかけたとき、すっと外から扉が押し開けられた。ふわりと誰かの腕に抱きよせられる。 
 先刻、拒むような冷たい色を浮かべていた瞳と間近に出会った。    
 アルジー、と名を呼ぼうとして、かすかに開いた唇に、やわらかにくちづけられた。懐かしいコロンと煙草の匂いに、会えなかった時間の空白が消える。きつく抱きしめられて、唇を重ねたまま、僕も彼の背を抱く。
 背中が壁にあたった。片手をついて、ふいに今、どこにいるのかを思い出した。
 両手で肩を押しのけた。みあげると、冷たく整った顔に皮肉げな表情を浮かべて、アルジーはひんやりとした声で言った。
「半年ぶりだというのに、そんなふうに迷惑そうな顔をするんだね」
 僕はカッとなった。
「半年ぶりなのに意地悪いことをしているのは、アルジーじゃないか! こんなところで」
「半年の間で、キスを嫌いになったとは知らなかった。それに私と会う約束を引き伸ばすくらいに社交好きになっていたとは――」
「仕事だよ」
「こんな俗悪な舞踏会で、シャンパングラスを片手に、いったいどんな仕事を?」
「仕事の内容は話せない」
 そんなことは、アルジーだってわかっているはずなのに。
「プリチャード夫人は、きみは英国のジェントリで、目下合衆国を遊学中だと」
「探偵ってことは伏せてるから」
 アルジーを睨みつけるようにして答えたとき、突然扉が開いた。咄嗟に身を離そうとしたのに、アルジーは僕の肩をだきよせた。抜け出そうともがいたけど、逆に抱き込まれてしまう。
 部屋に入ってきたのは、よりによってカーライル氏だった。僕らの姿を見て目を丸くしたけど、それほど驚いた様子もない。僕には普通に微笑みかけて、それからアルジーに向かって話しかけた。
「やはりきみか。久しぶりだね、アルジー。同じホテルに滞在しているんじゃないかい? 昨夜、ちらりと姿を見たんだ」
「やあ、ケヴィン」
 アルジーはそっけなく応えた。
 アルジーはこの国にもしばらく滞在していたことがあったから、社交界でカーライル氏と知り合っていてもそんなに不思議なことではない。だけどあまり仲が良いようにも見えなかった。
 カーライル氏は小さく首をかしげて、僕らを見比べ、そしてアルジーに尋ねた。
「アルジー、きみはバートと親しいのかい?」
「おそらく、きみよりはね」
 僕を抱きよせる腕をほんの少し強めて、アルジーは言う。
「彼は気分が優れないようだから、このままホテルまで送っていこうと思っている」
 勝手にそんなことを決められては困る。だって僕は仕事で、カーライル氏の警護をしなくてはならないのだ。
 抗議しようとした僕の耳元に、アルジーが唇をよせて囁く。
「きみは具合が悪いんだから、おとなしくしていないとだめだよ」
 いくら具合が悪いと言っても、こんなふうに抱き寄せられているだけでも、はたからみたらおかしな感じだろうに、耳元で囁かれたりしているのはどんなふうに見えるんだろう。
「具合が悪いって――。さっきまでは平気そうだったけど、大丈夫かい、バート」
 カーライル氏が身を乗り出して、僕の頬に触れた。だがアルジーに睨みつけられて、すぐに身を引く。ハンサムな顔になんだか厭な感じの笑みを浮かべた。
「彼は僕の警護をしてくれているんだよ」
 カーライル氏はあっさりと僕の仕事の中身を告げたが、それに対してアルジーは皮肉たっぷりの声で返した。
「きみを殺したがっているひとなら、きっと大勢いるだろうね」
「そうなんだ」とカーライル氏は大仰にため息をついてみせた。あからさまな敵意も皮肉もものともしない。
 アルジーはぶっきらぼうに尋ねた。
「いったい、なぜ、バートを警護に?」
「好きになったから。一目惚れ、かな」
 カーライル氏がこんなことを言うのは、はじめてではない。悪趣味な冗談のひとつとして聞き流していたけど、アルジーの前でそんなことを言うなんて最悪だ。
 僕が眉をよせたのをどう解釈してか、カーライル氏は意味ありげに目配せした。秘密めかした口調で言う。
「平気だよ、アルジーに聞かれたってね。いや、もっとべつの意味でまずいのかな」
 どの意味かはわからなかったけど、まずいのは確かだった。
 アルジーはひんやりした視線をカーライル氏に送り、不機嫌なのを隠そうとしなかった。
「そろそろ失礼するよ。バートとはつもる話もあるからね」
 カーライル氏は拗ねたふうにアルジーを睨みつけた。
「僕とだって、きみは久しぶりだろう?」
「確かに」
 アルジーは優しく言ったけど、まるで気持ちがこもっていない。唇には綺麗な微笑を浮かべている。こちらはうっとりと見とれてしまうけど、だけどあとで思うと明らかに突き放されている――そんなふうな笑み。
 案の定、つづく言葉はずいぶんと失礼だった。
「だが、きみとは話すことはないからね。ケヴィン」


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