アンバランスor――U 2
結局、そのままアルジーに強引に連れ出されて、馬車にのりこんだ。
カーライル氏もいっしょにホテルに戻ると言っていたけど、ちょっとした手違いが起きた。どういうわけか彼の外套を従僕が間違えて持ってきたのだ。
アルジーは、その隙にさっさと玄関ホールを抜け出し、カーライル氏を待たずに馬車を出してしまった。
「アルジー!」
勝手なことばかりされて、僕はいい加減頭にきていた。動きはじめた馬車の扉を開けて、とびおりようとしたのを、ぐいと肩をつかまれ、引き戻された。
「ケヴィンなら、自分の馬車でホテルに戻るだろう」
アルジーが言った。
「それよりも、きみに忠告しておきたい。ケヴィンのことはあまり信頼しない方がいい」
「僕は仕事をしているんだ」
「まず自分の身を守ることから始めるんだね」
「どういう意味だよ」
語気を強めたが、なんだかひどく情けない気分になった。
ずっと会いたかったし、声を聞きたかったし、話をしたかった。それなのに――
どうしてお互いこんなに刺々しくなってしまっているんだろう。
アルジーは冷たい声で言う。
「ときどき思うが、きみは想像力が欠落している」
「想像力――?」
「そう。ケヴィンのことだけではなく、きみと離れている間、私がどれだけ不安な思いで過ごしていたか、少しも考えはしない」
「そんなの――」
「不安なのはきみも同じだというのなら、私は自分にできることはしていた。手紙を書いていたし、こうして会いにも来ている」
アルジーはそっけない口調でつづけた。
「クリスティナは、毎週、きみからの手紙を楽しみにしていた。きみによろしくと」
僕はアルジーの不機嫌の理由に思い当たった。この一年の間、アルジーは頻繁に手紙をくれたけど、僕はほとんど返事を書かなかった。忙しいというのを口実にして。
だけどクリスティナからの手紙には、いつもすぐに返事を書いて送っていた。
最近、クリスティナはアルジーのことも書いてくる。ごくわずかだし、素直な書き方ではないけど、少女は少しずつアルジーに心を開いているような気がする。そうしたことを読みとるのも楽しみで嬉しい――アルジーに会ったら、そんなことも話そうと思っていた。
だが僕が口を開く前に、アルジーが苦い声で言った。
「そういえば、きみはシリルとも手紙をやりとりしているそうだね」
「スタットンとは、たった三度だよ。近況をしらせろって言ってきたから。こっちにきて、環境が変わったせいで、僕がまた神経質になっているんじゃないかって、馬鹿にしたような手紙ばかりだ」
思い出しても不愉快になる手紙があるとすれば、スタットンの手紙だ。僕のことを「要領が悪い」とか「正直すぎて馬鹿だ」とか。
だけどこちらが知りたいと思っていることも書き送ってくるから、一応読まざるをえないし、返事も書かざるをえない。
たとえばクラリスが健やかに過ごしていることをしらせてくれるのは、スタットンの手紙なのだ。
「シリルに三通の手紙を書く時間があるのに、私にはほとんど手紙をよこさなかったのはどういうことだろう」
皮肉っぽい問いかけに、僕は眉をよせた。スタットンに書くのとアルジーに書くのとでは違う。スタットンには用件だけ書き記して送るだけだから、たいして時間もかからない。
「きみはクリスティナには週に一度、シリルには三度、そしてグレイ氏にはほとんど毎日手紙を――」
「ジェムに毎日なんか書いてない」
アルジーは疑わしげな目をした。僕は小さく付け加える。
「三日に一度くらい」
ときどきは二日に一度だったり、つづけて毎日も書いている。ジェムには仕事のことや、他にもいろいろなことを伝えたいと思うまま、書き綴ればそのまま手紙になる。
でもアルジーへの手紙は、そんなふうにはいかない。その理由を告げることはできず、ただ反抗的に言い返してしまう。
「アルジーは、べつに返事がいるようなこと、書いてきてないじゃないか」
「それはきみがたまに寄越す手紙も同じだったが――」
諦めたような言い方をして、アルジーは横を向いてしまった。
それきり話題もとぎれ、そのあとは一言も言葉を交わさないまま、馬車はホテルに着いた。
「十分だけ」
馬車を降りながら、僕は言った。
「カーライル氏が戻るまでなら、アルジーといっしょにいる」
アルジーは答えず、小さくため息をついた。まるで僕がアルジーにひどいことをしていて、それを我慢しているみたいな、そんなふうな諦めのため息。そしてふりかえりもせず、歩いていく。不機嫌なのは、ちっとも隠す気がないのだ。
アルジーの背中を見つめて歩きながら、気持ちはどんどん暗くなる。
殺し屋の件がカーライル氏の被害妄想であるにしろ、僕は自分に与えられた役目はきちんと果たしたい。どうして、こういうことをアルジーはわかってくれないんだろう。
「アルコール類をたしなむようになったんだね」
部屋に入るなり、アルジーは言った。グラスをふたつとると、デキャンターのワインを注いで僕に差し出す。
「あまりたくさんは飲まないことにしているけど」
グラスをうけとりながら、僕は答えた。
もともと飲めないわけではない。ただアルコールと麻薬に溺れていた頃の自分がいやで、遠ざけていた。だが酒を飲まないでいるのは、仕事や付き合いに支障をきたすとタッカー氏に忠告されたのをきっかけに、ただ逃げるだけではなくて、自分で自分を制御できるようになろうと新しく決めたのだ。
あらためて――けどよそよそしく再会を祝したあと、アルジーは長椅子にかけた。立ったままの僕を見上げて、皮肉っぽく言う。
「ケヴィンとずいぶんと親しげだったね。いや――単に親しげというのでは不十分かもしれない。きみを知らないでいたとしても、眉をひそめたかもしれないよ」
むっとした。カーライル氏のふるまいに一番困惑しているのは、僕なのだ。仕事だから我慢している。
だけど――
今夜、カーライル氏は踊っているとき以外はずっと僕といっしょにいた。友人に紹介すると言って背中に回した手が腰におりてきたり――
そんなところも見られていたのかもしれないと思うと、顔から火が出そうな気がした。
「いったい、いつからあんなことを?」
軽蔑的な声で質問されて、僕はうつむく。だが悪いことは何もしていないのだから、今回の経緯を簡単に話した。
「三週間ほど前にカーライル氏が身辺警護と自分を殺そうとしている企みを暴いてほしいって依頼してきたんだ。ひどく神経質なふうで、何かに怯えている様子で、たまたま応接室に案内した僕に、まるで迷子になった子供みたいにすがりついてきた。僕が応接室から出て行くのもだめだというし、たいへんだった。そのあと身辺警護のために、僕を雇いたいと言い出したんだ」
「企みというのは、奥方に命を狙われているという?」
「うん。なんだか噂が広まっているみたいで、カーライル夫人はひどく怒ってるみたいだ」
アルジーは小さく肩をすくめた。
「このままでは、きみとのことも噂になりそうだね。きみはもっと毅然とした態度をとるべきだ」
「一目惚れだとか、そんなのは悪ふざけだよ」
「本気でそんなことを言っているのならば、やはりきみは想像力に欠ける。それでときどきひどく無防備だし、鈍い」
心底不快げな声音に、心のどこかが傷つく。
だけど、たったそれだけのことで生じる痛みを気取られるのがいやで、反抗的な声を選んだ。
「想像力に欠けるって――手紙のことも言っていたけど、今になってそんなことを言うのは卑怯だ。半年前に会いに来てくれたときには何も言わなかったじゃないか」
「手紙については、強制したくなかった。私は勝手だときみは言っていたし、それはよく自覚している。だがきみがもう少し筆まめだと嬉しいとは言ったはずだよ」
確かに聞いた。でも僕があまり手紙を書かないことへの不服なんかは、そんなに感じとれなかったから、深く考えなかった。
頬が熱くほてってくるのがわかった。
手紙を書けないこと、そしてアルジーの気持ちに気づけなかったことを思った。役立たずだと責められている気がした。だけど謝罪の言葉は出てこなかった。アルジーを咎めるように呟いてしまう。
「今言うなら、先に言ってくれたらよかった」
「今ならもう強制していることにはならないだろう? もう手紙を書く必要はない」
そう言って、アルジーは微かに眉をよせた。語気の強さとはうらはらに、僕がずいぶんと情けない顔をしているのに気づいたようだ。
「バート」
おいで、と招かれて、僕はのろのろと動いて、彼の隣にかけた。
アルジーは手を伸ばして、僕の顎をすくいあげた。間近で目があう。淡い色の瞳を凍らせている不機嫌はわずかに和らいでいて、温もりをとりもどしていた。少しだけ優しい声が囁いた。
「そんな顔をしないでくれ。咎めるつもりはなかった。どちらにしろ、これからは毎日でも言葉を交わすことができる。こんなふうに」
唇をかさねられた。優しいくちづけ。
再会したときから、心のなかで冷たくこわばっていた痛みがほんの少し癒される。
「言葉以外でも――」
切なくなるような眼差しに絡めとられる。
カーライル氏のもとに戻らないと――そう思う一方で、離れたくないと強く思った。これから先はいつだって会えるとわかっているのに、それでも――。
思考を手放して、彼の腕に身をゆだねてしまいたかった。
だけどそっと身を引いた。
こんなふうに繰り返し拒むことで、アルジーを傷つけるのではないかと思って、わずかに顔をそむけた。
アルジーは僕を見上げて、小さく呟いた。
「欲しいものがあったのに、また失ってしまったのかな」
「欲しいもの?」
おずおずと視線を戻して、尋ねた。
「手紙のほかにも?」
アルジーは僕の手をとる。引き止めようとはしなかったけど、指先に接吻して答えた。
「前にも言ったことがあるよ」
何のことかわからず、困惑する。
ふいに僕の手は支えをなくして、宙に浮いた。
「バート」
僕の目を覗き込むようにして、アルジーは言った。
「ケヴィンには気を許さないように」
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