アンバランスor――4


 歯医者の予約からは逃げ出せたけど、なんだかますます憂鬱になった。
 ジェムとの約束があるから歯医者には行けないと告げたときに、僕を見つめたアルジーの眼差しのせいだ。
 なんだか傷ついたみたいな目で、それはもちろん気のせいかもしれないのだけど――
 アルジーが歯医者に予約をしてくれたのは、意地悪ではなくて、少しは心配してくれたからなのだ。アルジーの好意を踏みつけにしているのだと思うと、少しばかり自己嫌悪に陥いる。アルジーの視線が痛かったのも、そのせいかもしれない
 だけど勝手に予約してしまったのはアルジーだ。先約があったのは仕方のないことだし、だから――
 ぐるぐると考えながら、僕はサマセット・ハウスに向かい、そこで頼まれていた遺言書の内容についての調べ物をした。
 それからメイスン社に向かった。
 ジェムはなにやら忙しそうだったが、僕の顔を見ると、破顔一笑、「助かった!」と叫んだ。
「え?」
「おまえと約束していたんだよな、ホームズ氏のところに行くの」
「う、うん」
「実は前から担当しているイースト・ボウのマッチ工場の件で、厄介な事態が発生したんだ。急いで行かなくちゃいけない。ホームズ氏の方は、頼んでいた事件の書類を受け取るだけなんだが、行ってきてくれないか?」
「……うん、わかった」
「事情を説明した手紙は書いたんだが――」
 ことの次第を早口に説明しながら、慌しく外出の支度をするジェムから、手紙を受け取る。
「じゃあ、頼む」
「……うん、気をつけて……」
 口を開いたところで、奥歯に痛みが走って、声がかすれた。
 ジェムはそのまま出て行こうとしたが、戸口で立ち止まって、ふりかえった。そして僕のもとに戻ってきて、まじまじと顔を見る。 
「バート、おまえ、具合が悪いのか?」
「え――」
「顔色が悪いし……」
「べつにたいしたことない。ちょっと歯痛で……」
「奥歯か? 少し腫れてるな」
 ジェムは僕の顔を覗き込むようにした。手が頬に触れる。
 どきり、と心臓が跳ね上がった。顔が真っ赤になるのがわかった。急いで身を引き、そしてうつむく。
「でもたいして痛みはないから」
「だが――」
「アルジーの紹介で、歯医者も予約してるから……」
 嘘ではないけど。だけど少し嘘っぽい。いや――これから嘘になるだろう約束だ。だって、僕はこの予約をすっぽかすことにしているんだから。
 なんだか罪悪感ばかり増えていく。
 僕はこっそりため息をついた。

 それから、僕はひとりでベーカー・ストリートの探偵を訪ねた。
 約束の時間に、呼び鈴を鳴らすと、出迎えてくれたのは、人当たりのよい中年の女のひとだった。下宿のおかみさんという感じだ。
 そして二階に案内された。
 メイスン社の探偵さんですよ、と取り次いで、そのひとは階下におりていった。
 どうぞ、と部屋のなかから、入室を許可する声がして、僕はそっと扉を開けた。
 部屋は広々としていて、事務所というよりもごくありふれた居間のようだった。でもありふれた居間には、化学の実験道具の並んだ机はないかもしれない。
 書き物机がふたつあって、部屋にはふたりのひとがいた。ひとりは後姿しか見えなかった。机に向き合って、一心にタイプを打っている。明るいめの金髪、大柄なわけではないけど、よく鍛えられたふうな体つきで姿勢がよくて、事務的な作業は少し窮屈そうにも見える。
 そして痩せ型の黒髪の紳士が、暖炉のそばの肱掛椅子に深くかけていた。彼はしきりに煙草をふかし、なにやら考えごとをしている様子だった。
 どちらに声をかけるべきかと困惑して、小さく息を吸い込んだとき、黒髪の紳士が僅かに顔をあげ、灰色の瞳で鋭くこちらを一瞥した。
 僕は慌てて口を開いた。
「あの、グレイ氏が急な所用でこちらにお伺いできなくなったので――」
「イースト・ボウの一件では、忠告をしておいたのだが」
「え」
 僕はまたたいて、黒髪のひとを見つめた。彼はふたたび考えに沈んでしまったようで、もう僕の方は見ていなかったけど、とにかく僕は会話を持続させようとした。
「え、ええ。そうです。イースト・ボウの工場長さんが暴漢に襲われて――幸い命に別状はなかったみたいです。ジェム……いえグレイ氏は、部下をこっそり張り込ませていたので――」
 黒髪の紳士は小さく肩をすくめた。
「グレイ氏はよくやったと評価すべきだろう。責められるべきなのは、グレイ氏の忠告を受け入れなかった工場長だな」
 独り言のように言う、そのひとに、僕はどう言葉を返したらよいのかわからなかった。
 とりあえず、ジェムから預かった手紙を急いで取り出して、前に一歩踏み出そうとした。
 と、鋭い声がとんだ。
「足元に注意を」
 はっとして足元を見た。
 そして目を丸くした。僕が足を踏み出そうとしたところから、そのひとがかけている肱掛椅子まで、床一面にタイプ打ちしした書類が敷きつめられているのだ。
「あ、あの?」
 困惑し、これはいったい何を、と尋ねようとしたけど、黒髪の紳士が煩げに片手をあげたので、口に出せなかった。
 そして彼は、愛想のかけらもない声で言った。
「あなたの歩く道は開けてあるから、どうぞ。ミスター・ホーキンズ。そこの椅子にかけて――」
「……え。あ、はい」
「じきワトスン氏が書類を仕上げてくれるはずです」
 すると、やはりこの紳士がホームズ氏なのだ。
 僕は散らばった書類の間を進み、長椅子に腰をおろした。それきりホームズ氏は喋らず、聞こえて来るのは、タイプをせわしく打つ音だけ。
 ワトスン氏は、何だかもの凄い勢いでタイプを打っている。
 その背中は、怒りを放出しているような気もする。
 僕の気のせいだろうか。
 だけどなんだか、部屋の空気もぴりぴりしている。つい今しがたまで喧嘩でもしていたんじゃないかと疑ってしまうような、そんな険悪な雰囲気だ。
 だがホームズ氏の愛想が悪いのは、いつものことらしいから、あまり気にしない方が良いのかもしれない。
 それから――
 変わり者、っていう噂も、確かにその通りかもしれない。
 なんとも居心地の悪い沈黙のなか、僕は時折時計に目をやり、そっとため息をついた。
 アルジーは今ごろ、予約してくれた歯医者に事情を説明しているのだろうか。電報で知らせるくらいだろうか。気まずくなったりしていないといいと思う。
 十五分ほど経ち、タイプの音が止まった。
 ワトスン氏は小さくため息をつき、タイプした書類をまとめて、マニラ紙の封筒にいれた。そして立ち上がり、床の上の書類に不機嫌な視線を向けた。
 だが僕の方を向いたときには、少々疲れたふうではあるものの、無愛想ではなく、誠意ある声音で書類の出来上がりが遅くなってしまったことを謝罪した。
「待たせてしまって、申し訳ない――」
「ホーキンズです。グレイ氏の代理できました」
「よろしく。ミスター・ホーキンズ。ワトスンです」
 僕はジェムから預かった手紙を渡し、書類を受け取った。ざっと中身を確認していると、ワトスン氏が言った。 
「具合が悪そうだが、大丈夫ですか?」
「え……」
 無意識のうちに、頬に手を当てて、眉間に皺を寄せていた。慌てて首を横に振った。
「あ。ただの親不知です」
「親不知? ああ。なるほど、腫れているみたいだな……、それに熱が出てるんじゃ――」
「熱――?」
 そんなことはない、と否定したけど、言われてみたら、歯だけではなく、頭も痛いし、さっきから少し寒気もしていた。
「そんなふうだと、抜いた方がいいかもしれないな」
「……でも……その……もう少し様子をみてもいいかと思っているんですけど」
 確認した書類を封筒にしまいながら、僕はぼそぼそと言った。
「だがその様子だと、早く診てもらった方がよさそうだな。なんなら、ここで俺が診ようか? 抜歯もしたことがあるから、ここで抜いてもいいが」
 ワトスン氏の申し出に、僕はぎょっとして、顔をあげた。
 本気なのか、冗談なのか。ワトスン氏は真面目な顔をしている。
 恐る恐る尋ねてみた。
「あの、歯医者さん、だったんですか?」
「いや。だが軍医として、戦地で抜いてやったことがある。――あのときは大変だった。麻酔なんかないから、酒を飲ませて酔い潰したところを、ふたりがかりでペンチで抜いたんだ。抜いたときは痛がっていたが、二、三日安静にしていたら――」
「あ、あのっ」
 僕は書類を抱きかかえて立ち上がり、僅かに後ずさりしながら、失礼にならないように辞退する。
「歯医者に予約してもらっているので――、大丈夫です」
「そうか」
 ワトスン氏は残念そうに引き下がったが、すぐに噴き出しそうな顔になった。そして幾らかあったかで、くだけた口調で言った。
「まあ、ロンドンにはちゃんとした歯医者がいくらでもあるからな。早い目にみてもらった方がいいだろうな」
 ひょっとして僕の歯を抜こうかと言い出したのは、僕が歯医者を嫌がっているのを察して、わざと脅したのだろうか。
 つまりからかわれたのだろうか。 
 少しばかりむっとした。
 そこにホームズ氏の声が割り込んだ。
「次は予約時間に仕事をいれたりしないようにするんだね」
 どきりとして、ふりかえった。
 でもホームズ氏は、こちらを見てもいない。しきりに煙草をふかし、半ば目を伏せて考えに沈んでいる様子だ。
 ワトスン氏は小さく肩をすくめ、気にしなくてもいい、と目配せを寄越した。そして戸口まで見送ってくれた。
「グレイ氏によろしく」
 握手をして、そして別れた。
 ベーカー・ストリートの探偵たちの居間を出ると、僕は小さくため息をついた。緊張が緩むと、また奥歯がずきずきと痛み出した。
 歩き出しても歯に響きそうな気がして、頬を手で押さえた。それで立ち去るのが遅れたのだけど、階段を降りかけたとき、なんだか喧嘩でもしているみたいな怒鳴り声が耳に飛び込んできて、びくりとして見上げた。
 何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかったけど、ワトスン氏が一方的に捲くし立てているようだ。
ヴィーって名前が出てきている。そのひとのことで揉めているのだろうか。何だかよくわからない。
 立ち聞きしているわけもいかないし、奥歯の痛みはますます酷くなり、泣き出しそうなくらいだった。
 僕はのろのろと階段を降りて、辻馬車を拾った。メイスン社の事務所に書類を届けてから、ウィグモアに戻った。
 そのときには、熱が出ているのが自分でもわかった。悪寒がして、足元がふらつき、立っていられない。
 もういい加減、自分が間違っていたって認めていた。歯医者に行くべきだったのだ。今からでも診てもらおうと思った。
 アルジーが紹介してくれるといった歯医者のことも、ちらりと頭によぎった。
 だけど、今更、頼めっこない。
 部屋で一休みしたかったけど、そうしたらもう起き上がれないような気がした。だからなんとか立ち上がり、部屋を出た。
 階段をおりかけたところで、とんと誰かにぶつかり、抱きとめられた。
「バート?」
 アルジーだった。
 僕は顔をあげた。そしてはっとして、腫れている頬を手で隠したけど、もちろんもう遅い。
 具合が悪いのはきっと一目でわかったと思う。アルジーは微かに眉をひそめた。
 それみたことかと呆れられるか、もしくは厭味を言われるのを覚悟した。そうされても仕方がない。僕は結局アルジーの忠告を無視して、好意も無駄にしたのだから。
 だがアルジーは何も言わず、僕を部屋に連れ戻して、ベッドに座らせた。そして、そっと僕の髪に触れて、安心させようとするみたいに微笑みかけた。それから、当たり前の口調で言った。
「馬車をとめるから、それから降りておいで」
「馬車?」
「こうなっては、きみだってもう、エルギン先生のもとに行くのに異存はないはずだよ」        

 それで僕の悪あがきはおしまいになった。

 そのあとのことは、あまり思い出したくない。痛くない歯医者なんて、やっぱり存在しないと思うし、それに麻酔をかけられて、痛み止めの薬も飲まされて――細かいことは、あまりよく覚えていない。
 下宿に戻るなり、ベッドに倒れこんで、ぐっすりと眠ってしまった。
 次に、痛みで目が醒めるまでは、だけど。


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