アンバランスor――3


 なんだか幸せな夢をみていたはずなのに、目覚めたときには、ずきずき歯が痛いのしかわからなかった。
 そっと目を開けた。
 外の気配からもう五時くらいだと思うけど、部屋のなかは暗い。だいたい霧のせいで、昼間だって灯りをつけてないとどうしようもない日が続いている。
 少しの間、じっとしていたけど、痛みはおさまらない。
 もう一度眠ってしまおうとも思ったけど、顔が腫れているような気がして気になった。あんまりひどい顔になっているとしたら、アルジーが起きる前に知っておきたい。いきなり、笑われたりするのはいやだ。
 そっと腕を伸ばして、ベッドサイドの灯りを小さく灯した。
 アルジーはまだ眠っている。
 僕の方に顔を向けていて、その横顔は、半ば枕に沈んでいた。眠っているときのアルジーの、閉じた瞼のラインが綺麗だと思う。もちろん瞼だけではなくて、顔の輪郭はつくりものみたいにバランスがとれている。薄い唇は無防備な感じで、少しかわいいと思った。意地の悪いことも言わないし――
 そんなふうにアルジーの寝顔を見つめていたのは、ほんの少しだけだ。ときどきアルジーは起きているのに、眠ったふりをしていることがあるから。
 僕がため息をついたり、独り言を言ったりすると、そのときはしらんぷりしているのに、あとでからかったりするのだ。
 僕はそっとベッドを抜け出した。
 クローゼットの傍らの姿見を覗き込んでみる。
 幽い光が鏡面にぼうっと広がっていた。口のなかまでは見えなかったけど、顔は右の頬がほんの少し腫れているようだ。
 このまま腫れがひどくなったらどうしようかと不安になった。
 だけど、抜くのは、絶対に厭だ。
 虫歯じゃないんだから、生えたらなんとかなるんじゃないだろうか。
 つまりあと少し我慢したらいいのだ。
 ――痛い、けど。
 ため息をついた。
 すると声がした。
「三時に歯医者を予約してある」
 びくりとして振り返ると、アルジーがベッドにうつぶせになって、枕をかかえるような姿勢でこちらを見ていた。
「歯医者って?」
 聞き返しながら、厭な予感がした。昨夜、食事をしていたとき、アルジー宛てにメッセンジャーが手紙を運んできたのを思い出した。
「あれ……ひょっして――」
「そう。昨日、きみの目を盗んで、歯科医のエルギン先生に連絡をしたんだ。それで早速返事をくれたんだよ。彼のことは信頼してもいい。評判の良い医者だし……」     
「昨日、何も言わなかったじゃないか」
「昨夜言ったら、きみは一晩中、歯医者に怯えて過ごさなくてはならなかっただろう」
「怯えたりなんかしないよ」
 尖った声で言い返したけど、アルジーは本気にしてはくれない。困ったような、面白がってるような顔をする。まるで駄々をこねている子供をなだめようとしているみたいに。
「大丈夫だよ、バート。抜くとしたって、ちゃんと麻酔を――」
「麻酔がきれたら痛い」
 言ってから後悔した。子供っぽい台詞で、また馬鹿にされてからかわれるって警戒した。
 アルジーは微苦笑を浮かべた。
「それはそうだけどね。そのままでいたって、痛いのにはかわりはないんじゃないかい? 口が開かなくなってからだと治療も大変だよ」
「口が開かなく……?」
「そう。私の友人のラリーは、そうなってから歯医者に行ったんだが、何しろちゃんと口が開かなくて、歯医者も手探りで悪い歯を捜さなくてはならない。間違った歯を抜かれてしまって大変だったよ」
 そんな恐ろしい話を、アルジーは平気な顔でする。
「それって、つまり、別の歯を抜かれたってこと?」
「そう」
「じゃあ、結局は二本抜いた?」
「そういうことだね」
 考えただけで気分が悪くなった。歯も痛いし――
「バート」
 アルジーは、毛布と上掛をもちあげた。
「とりあえず、ベッドに戻っておいで。そんなところでぼうっとしていると、風邪をひくよ」
 確かに寒かった。
 暖炉に火をくべて、それからベッドに戻った。アルジーの腕に抱き込まれて、肩口に顔をうずめた。寒かったから、だ。
 アルジーが言った。
「エルギン先生のところには、私も一緒に行くつもりだよ」
「僕は――」
 僕は行かないって言おうとしたけど、やめた。
 きっと第二のラリーの話をされるに決まっている。それに、いつだって僕は結局はアルジーの言うがままになるのだ。口では勝てないし、それに、歯医者に行く方が正しいっていうのもわかってはいる。
 わかってはいるけど、厭なのだ。
 ふいに腹が立って、僕はアルジーから体を離して、背中を向けた。
 くすり、と小さく笑う声がした。
 むっとして、きつく唇を引き結んだら、奥歯がまだ痛み始めた。
 
 こんなふうだから、朝食もろくに食べることができなかった。歯医者に行くのだと思うと気が重くて、食欲もうせてしまった。
 アルジーが席を外した隙に、マントルピースの上に飾ってある、小さな鏡を手にとって、こっそり口を大きく開けてみた。大丈夫。まだちゃんと普通に開くと安心する。
 そこに元気の良い声がした。
「おはようございます、ホーキンズさん。どうしたんです? 風邪ですか? 喉が腫れてる?」
「あ……」
 僕は口をぱくぱくさせて、慌てて鏡をもとに戻した。
「お、おはよう」
 やってきたのは、来月から探偵事務所で経理を担当してくれることになっているマクレガーだ。
 マクレガーは、メイスン探偵事務所で働きながら夜学に通った努力家だ。年は僕より二つ上で、明るく快活な性格だが、僕のことは最初、嫌っていた。男娼なんて、汚らわしい稼業についていたのが気に入らなかったのだ。僕がジェムを騙して、利用しているのではないかとか、疑っていた。
 それでも、一度うちとけてからは仲の良い友達になった。今回も探偵事務所を開設するにあたって、本来の仕事以外のところでもいろいろと助けてくれている。
 普段はお互い呼び捨てにしているから、ホーキンズさん、なんて呼ばれるとくすぐったいし、妙な感じだ。それでもマクレガーは、仕事は仕事だから公私のけじめはつけなくては、という。
 だが僕が歯痛のことを打ち明けると、途端、げらげらと笑い出した。
 僕が睨むと、大笑いするのはやめたけど、にやにや笑って、からかうように言う。
「おまえ、歯医者と犬は大嫌いだったよな」
「犬はともかく、歯医者を好きな奴なんて、滅多にいないだろ」
「よしよし。ま、サー・アルジャーノンが紹介してくれる医者なら、きっと名医だろ。俺たちがかかるような医者とは違うって。痛くもないさ」
「痛いのは痛いよ」
「ちょっとみせてみろよ。ああ。右だな。少し腫れてるみたいだ。早く行った方がいいぜ」
「……だから今日、行くじゃないか」
 ため息混じりに答えると、マクレガーはくっくと笑った。そしてまた事務員の口調に戻って、言う。
「グレイさんへ連絡しておきましょうか?」
「え?」
「ベーカー・ストリートのホームズさんのところに行く約束をしているはずですよ」
 僕は慌ててスケジュール帖を捲った。
 だが先にマクレガーが言う。
「アークライト家の殺人事件についての書類を、今日、受け取りに行くのでは?」
 シャーロック・ホームズ氏は、ベーカー・ストリートに事務所をかまえる探偵だ。普通の私立探偵ではなくて、諮問探偵を名乗っている。つまり他の探偵社からの相談なんかも受け付けている。
 メイスン社も度々ホームズ氏のところに難しい事件を持ち込んで、解決の糸口を見つけてもらっている。
 物凄くきれる頭脳の持ち主らしく、英国のみならず欧州の王室の抱える難しいトラブルや、国際問題なんかにかかわる込み入った事件を担当して、成果をあげているということだ。
 ただホームズというひとの評判は、良いだけではなくて、かなり気難しいとか、変わり者だとか、礼儀知らずだとか――敬遠するひとも多いし、なんだか謎めいた感じだ。
 ホームズ氏のパートナーのワトスン氏が温厚で信頼のおける紳士で、天才型の探偵を何かと助けているのだと、ジェムは言っていた。
 ここウィグモアとベーカー・ストリートは近いのだし、事務所を開く前に一度顔合わせをしておくのもいいかもしれないと、今日ジェムが行くついでに連れて行ってもらうことになっていたのだ。
「歯医者はまたにする」
「平気ですか? 歯」
「平気だよ」
 痛いけど。
「でも無理しない方がいいですよ――いや、マジでさ。ちゃんと治療しとけよ」
「わかってる」
 だけどジェムとの約束と歯医者の予約だったら、どちらを選ぶかなんて、決まっている。それにジェムとの約束の方が先なのだから、歯医者を断わる正当な理由になる。ずるではない。
 あと急ぎではないが、頼まれていた調べ物があったのを思い出した。書き物机の引き出しを開けて、僕は必要なものを準備した。
 そのとき、アルジーが部屋に戻ってきた。
「サー・アルジャーノン、おはようございます」
「おはよう」
 アルジーは、マクレガーにはそっけなく挨拶を返し、僕が外出の支度をしているのを見て、眉をひそめた。
「バート?」
「仕事なんだ。ジェムに頼まれている――。だから歯医者は行けない」
 早口に言って、アルジーに引き止められる前に扉を開けて、部屋を飛び出す。 
 マクレガーの声が、あとから追いかけてくる。
「ホーキンズさん、約束は三時ですよ」
「調べものがあるから――」
 嘘ではない。
 こんなに早くに出かける必要はないのだけど。


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