アンバランスor――2
オペラの時間よりもだいぶ早めに、アルジーはやってきた。それは珍しいことではなくて、彼はいつでも僕の身なりのことまで口を出さずにはいられない。だから僕が身支度をしている頃にやってくる。
上流階級の社交の場に着ていくような服は、僕にはとても買えない。まず資金的に無理だし、センスだって追いつかない。そもそもジャーミン・ストリートやサヴィル・ロウなんかの紳士服の店に、ひとりで入って行く勇気はない。入っていったって、きっと相手にされないだろう。
そんなわけで、僕とアルジーとの関係がスタートしてから最初の二ヶ月ほどは、アルジーは週に一度は僕を買い物に連れまわして、クローゼットの中身を増やしていった。劇場や音楽会に一緒に出かける際に、僕がみっともない格好をしていると、アルジーも恥をかくことになるからだろう。
でも、アルジーは僕の服をコーディネートするのを楽しんでいるようなところもある。
最初の頃、そんなこともひどく鬱陶しかったけど、今はもう慣れてしまった。だけど出かけるところも、仕事も、それに服も、何もかもアルジーの好みを押し付けられては、時々息がつまる。
本当は。
アルジーと出かけたくないのかもしれない。
そんなことを思って、ベッドのなかで身をちぢめた。
ずきり、と奥歯が痛んだ。
歯の痛みはどんどんひどくなっていくみたいだった。
「バート、具合が悪いのか」
「ちょっと頭が痛いんだ。……吐き気もする」
早く出かけて欲しいと願いながら、小さく答える。
「それはいけない――」
予定が狂ったことで気分を害して、機嫌を悪くするんじゃないかと思っていたのに、アルジーの声は心配そうに聞こえた。
「バート」
彼はベッドの端に腰かけて、そっと僕の髪に触れた。
「こっちを向いてごらん」
見上げてみると、アイスブルーの瞳には、意地悪くからかうような色はなくて、とても真面目で――つまり、やっぱり本当に心配しているみたいに見える。
彼は僕の額に手を当てて、小さく首をかしげた。
「熱はないようだね」
「寝てたら治るから」
僕は言った。
「オペラのチケット――無駄にするの、悪いとは思うんだけど――」
「そんなことはどうでもいい。具合の悪いときに、チケットのことなど心配するものじゃないよ」
そんなふうに言われると、なんだか自己嫌悪に陥る。だって今は本当に歯が痛いけど、そうでなくても仮病を使おうしていた。
どうせ歯が痛くなるなら、あんなことを考えつく前に痛くなれば良かったのにと思う。
そうでなければ、痛くならないで欲しかった。
ずきりとまた痛んだ。
恐る恐る舌で痛みのある歯に触れてみる。だけど特にかわりはないみたいな気がする。一晩寝て、それで治ってくれたりはしないだろうか。
だけど、なんだか頬まで腫れているような気がして、そっと手をあてた。
すると、アルジーが微かに眉を寄せた。
「バート。頭痛の他に具合の悪いのは?」
「ない」
歯が痛いことは、絶対に知られては駄目だ。
僕が何よりも嫌いなのは、歯医者だ。
子供の頃、右の奥歯がひどい虫歯になったことがあった。
近所には、きちんとした歯医者さんがあった。最新の設備を備えている歯医者で、所謂床屋医者じゃないのが自慢だったみたいだけど、ひとりで行くのは怖かった。
でも母さんは歯医者は血の匂いがして不潔だから行きたくないと言ったから、仕方なく、ひとりで出かけた。
虫歯はかなり進行していた。加えて乳歯だったから、歯医者はあっさりと抜くことに決めたのだ。僕は逃げ出したかったけど、どうしようもなかった。麻酔はかけてもらったけど、痛くて死にそう、というのをはじめて経験した。
痛みは夜になっても引かず、その上、血もなかなか止まらなかった。夜、ベッドを汚すと母さんに叱られると思ったから、タオルを頬に当てて、ずっと起きていた。どちらにしろ、痛みのせいで眠ったりすることはできなかったと思う。
あのときはそれだけでは済まなくて、やっと抜歯の痛みが引いたと思ったら、今度は熱を出してしまった。
母さんは看病してくれたけど、きちんと歯を磨かないからだとくどくどと注意され、父さんには虫歯ひとつのせいで熱まで出すなんてと呆れられて、最悪だった。
でもとにかく、あのときからずっと、何があっても、歯はしっかり磨くようにしていた。
だから――
「虫歯かな」
アルジーが言うのをきっと睨んだ。虫歯なんかのはずがない。
アルジーは僕の唇を指でなぞりながら、あやすような声で言う。
「みせてごらん」
「いいってば」
口を開いた途端、アルジーの指が入り込んできた。
最初っからそうするつもりだったみたいで、いつも僕をからかうときの、綺麗だけど意地悪い笑みを浮かべて覗き込む。
「もう少し口を開けて」
いやだって――
言おうとしたけど、アルジーの指が舌に触れた。舌を動かして押しのけようとしたけど、濡れた指に上顎をなぞられ、それからまた舌をくすぐられる。
体をねじって逃れようとしたけど、別の手で肩を押さえつけられてしまう。そして、アルジーは、幾らか厳しい口調で言う。
「バート。言うことを聞きなさい」
そんなふうな命令口調は、アルジーは滅多に使わない。びくりとして、見上げた。
アルジーは、微苦笑を浮かべた。
「バート」
今度は少しだけ優しく、宥めるみたいな声で名前を呼ばれた。
放っておいてくれる気はないみたいで、仕方なく、口を開けた。
ベッドサイドの灯りを大きくして、アルジーは僕の口のなかを覗き込み、奥歯の辺りに指でそっと触れた。
「親知らずが生えてきているみたいだね」
「親知らず?」
虫歯じゃなかったんだとほっとした。
なのにアルジーは言う。
「腫れているようだ。早めに抜いた方がいいかもしれない。腕のいい歯科医が知り合いにいるから、明日にでも予約をいれて――」
「いらない」
「バート」
「そんなに痛くないから」
歯医者になんか絶対に行くものかと、硬い決意を込めて、言う。
「大丈夫だから」
するとアルジーはそれ以上無理強いはせず、にこりと微笑んだ。
「では、オペラにも行けるのかな」
「行くよ」
反射的に答えてから、しまったと思ったけど、遅い。そもそも頭が痛いって理由で、オペラを断わったのも、そのあとで思い出した。
だけど、頭痛が仮病だというのもばれてしまっているようだった。もっともオペラに行くのを断わる口実ではなくて、歯医者に行くのが厭なせいだと、アルジーは思っているみたいだけど。
どちらにしろ、歯医者に行くらいなら、オペラの方がまだましだった。
アルジーの思う壺にはまってしまったみたいで悔しいけど、僕はのろのろと起き上がった。
奥歯はずっと痛いのではなくて、時々ずきずきと痛みだして、そうするとどんどん痛みが大きくなっていく。
だけど、我慢できないほどではない。
ひょっとしたら、痛みのお陰で居眠りはせずにすむかもしれない。
小さくため息をついた。
アルジーはクローゼットから、先週仕立てたばかりのスーツとそれに合うシャツをゆっくり選び出した。僕が着替えている間に、タイとカフスを決めてしまっていた。僕を人形みたいにじっとさせておいて、アルジーは瑪瑙カメオのカフスをとめ、タイを手際良く結び、慎重に形を整えた。
それからくるりと姿見の方に、僕を向き直らせる。
「よく似合っている」
アルジーは満足げに言って、僕の頬にキスした。そして少し口調変えて、からかうように囁いた。
「それにしもバート、きみは本当に、おかしなところで頑固だね」
うしろから、両腕ですっぽりと僕を抱きしめ、鏡のなかの僕の顔を見つめて、アルジーは微苦笑を浮かべている。
「半年経っても色々と発見があるのは、楽しいけど、今夜は出かけるのはやめにしよう」
「え?」
やめにしようって、アルジーも行かないってことだろうか。
「だけど、すごくいい舞台だから、見逃せないって言ってたじゃないか」
「そんなことを言ったかな」
「言った」
仮病を使おうとしたのが、段々心苦しくなってきてもいたし、僕はオペラを見に行くつもりになっていた。
「アルジー、僕は平気だから。折角着替えたんだし――」
「だけどきみは、そのスーツを着ていくわけにはいかないだろう」
「どうして?」
「あまりにも新しすぎる。外に着ていくには、もう少し着慣れたふうにしておかなくてはね」
「だけど……」
アルジーはベッドに腰かけて、「おいで」と僕の方に両腕を伸ばす。
「本当のことを言ってごらん。痛みはひどい?」
隣にかけた僕の顔を覗き込むようにして、アルジーは優しく尋ねた。
「――ときどき痛くなる」
「せめて、痛み止めを処方させようか」
「いい。薬はできるだけ飲まないんだ」
「本当に頑固だね」
「薬は――、だって痛み止めって、麻薬みたいなものじゃないか。一度飲んで、また前みたいに中毒になるのが怖い。もう絶対にあんなふうにならないって、ジェムと約束したんだ」
「ベッドにいるときは、グレイ氏の話はやめにしないかい」
やんわりさえぎって、アルジーはゆっくりと僕の体をベッドに押し倒す。
「それよりも、痛みから気をそらす方法を考えてみよう」
耳元で低く囁かれた。
答えようとしたけど、耳朶を甘噛みされ、ベストの下に潜り込んできた手に邪魔される。その手をはらいのけて、肩を押しのけるようにして、睨みつけた。でもアルジーはおよそ行儀の悪い言葉を囁き、僕のシャツのボタンを外そうとする。
「やめ――、服、皺になる――」
「少し着古した感じになって、丁度いいだろう」
そんなことを言う。
やっぱり僕には理解できない。アルジーやアルジーの階級のひとをお客になんかしたくないと思う。
わけのわからない約束ごとは多いし、意地が悪いし、昼間はとりすましているのに、ベッドではまるで違うふうになるし――
だけど。
この日、アルジーはあまり意地悪なことはしなくて、食事をしたときも、そのあと一緒に眠ったときも優しかった。
だから、その間だけ。
痛みは忘れてしまって――
もうこのまま、痛みはひどくならないんじゃないかとも思った。
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