OPIUM BUTTERFLY4/5
……
悪魔とすれ違ったような心地だった。
ルル坊やとの決裂。そして彼が立ち去ったあともしばらく、その場に呆然とたたずんでいた。
屋敷の方に戻ると、先ほどのテラスに、アランがひとりでいた。
サロンから漏れる人工の光と月の光の狭間にひっそりと立つ――その理知的で冷たく、美しく厳格な聖者殿の仮面の下に、限りなく夜の闇が似合う月の神秘と受身の弱さが隠れているのを、俺は知っている。
その完璧すぎる仮面、そして深い闇をはらむ魂の矛盾に、俺は惑わされているのかもしれない。
抱きたいのでしょう――?
瞬間、目を伏せた。
邪な目を、あいつに向けたくはなかった。
毒に浸された囁きを押しのけてから、俺はアランに歩みよった。快活さを装って声をかけた。
「ジーナとの話は終わったのか」
翡翠の瞳がこちらを見た。感情を表に出さない眼差しを、高慢で非人間的だと厭う輩もいるが、俺は何時間でも見つめていて欲しい。
「彼女はどんな話を?」
シガレットケースから煙草を取り出しながら、気になっていたことを尋ねた。
アランは微かに眉を寄せた。どうもジーナとの対話は、さほど実りのあるものではなかったようだ。
「かかわらない方がいいという忠告を受けた」
ジーナは、あの水色の瞳の青年のことは知っているのだろうか。
知っていて――それで彼女は、ルルを俺に預けたのかもしれない。
アランよりも俺の方が、ルルにまとわりつくあの毒には耐えうることができるだろうと、女主人は腕を組む相手をふりわけたのだ。
くわえた煙草に火を移し、紫煙をくゆらせながら、アランが淡々と言葉を継ぐのを聞いていた。
「彼が良くない連中と付き合っていることは、仄めかしていた。ウォーター氏の母君は、女性問題について案じてらしたが、私が話してみた様子でも、恋愛めいた熱病を患っているようだ」
「おまえの推測は当たらずとも遠からず、というところだな」
だがさほど心配することもないだろうと、言外に匂わせ、俺はそうした事柄とは別の問題に触れてみた。
「しかし、おまえがルルにかかわるとは思わなかったよ。大丈夫なのか?」
アランは無表情に視線を返し、静かに答えた。
「あの方々を巡る政治的な闘争には、私も我が家も関わるつもりはない。ただ父はウォーター氏の母君から、くれぐれもよろしくと頼まれている。放っておくわけにはいくまい」
「放っておくしかないと思うがな。なにしろあの父親の息子だぜ。女遊びは当たり前って感覚だろ」
女遊びだけなら良かったんだがな、と心のなかで呟きつつも、俺はわざと気楽な口調で言った。
「ルルのことは、俺に任せてみないか。今夜は少しばかり神経を昂ぶらせていたが、次に会うときには、まずい付き合いからも足を洗うように、うまく忠告してみよう。あの坊やには、おまえよりも俺の方が適任だ」
アランは僅かに逡巡した。
「確かに私よりは、おまえに心を開いているようではあるが」
「今夜の様子では、ルル坊やは、おまえの言うことは聞きそうにないぞ」
そして俺の言うことも聞きはすまい、と声には出さずに付け加える。
嘘をついているわけではないが、騙しているのにはちがいなく、後ろめたさがなくはない。だがそんなことよりも――
こいつをルル坊やに近づけるわけにはいかないと、俺は決めていた。いや、ルル坊や――ルイ・ウォーター氏はどうでもいい。
私はあの青年を逃がしたくはないのです。
柔らかに告げた声。
水色の瞳の彼は、ルルを手に入れるつもりなのだ。邪魔をする者を許しはしない。
そのために俺を誘ったのだ。
わざわざ一度ルルと別れて、ルルに指示した待ち合わせの場所で、俺に接吻した。ルルに見せつけるために。
嫉妬というのが、どれだけひとの心を頑なに、愚かにするのか、俺ほど知っている人間もいない。
彼は、俺からルル坊やへの影響力を奪ったのだ。
また同時に、アランとルルとの間の盾に、俺を利用した。
あの毒には、けっして、アランを触れさせたくはないと、俺が考えるだろうと先読みしていた。
どのみち、ルル坊やはもう手遅れだった。
自ら望んで、悪魔に囚われた者を救いだすことはできない。
あの声、あの言葉に抗う自信はない。――聞く者の心にあまり優しい誘惑。秘密に触れ、愛撫し、掴みだして、押し殺してきた醜い欲望に甦りの力を与えるのだ。
「とにかく俺に任せておけ」
楽天的に繰り返したあと、話題を転じた。耳朶のかすり傷に目をつけて、囁いた。
「そんな傷、ふたりきりなら、舐めてやったのに」
「ふたりきりだったら、そのふざけた口はもの言うことができないようになっていただろう」
ひんやりと冷たい声で切り返された。
解釈によっては、それなりに色っぽいシチュエーションも想定できるのだが、口にするのはやめにした。
潔癖な親友は、この手のジョークが何よりも嫌いで、苦手なのだ。
シガレットケースから新しい紙巻煙草を選び出すと、吸いさしの火を移した。短くなった煙草は庭に投げ捨て、闇に呑まれる小さな炎を目をすがめて追った。
……
そしてルルは死んだ。
士官として、ズールー戦争に従軍して死亡した。
戦死だ。
殺人ではない。
しかし俺は、あの夜の彼の影響を確信していた。
確かめる術はなかったが。
どのみち、ルル坊やの場合、自業自得だ。
もっと用心しておくべきだったのだ。ルイ・ウォーターいう偽りの名は、彼自身の心を騙し、自由という幻想を与えたかもしれない。しかし、彼の立場を甘やかすものではない。
スペイン出身のウージェニー、そしてフランスのナポレオン三世のひとり息子。国を追われた皇帝の亡きあとは、身内ではナポレオン四世陛下と呼ばれている――、その立場は、ただ崇められるだけではなく、利用され、謀略の犠牲となることとてあるということを自覚しておくべきだった。
側近共も己らの最後の希望をけっして逃さぬように、もっと厳重に監視しておくべきだった。
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