OPIUM BUTTERFLY3/5
こいつは凶悪だな、と俺はひとりごちた。
もはや俺の存在など意識の外に放り出してしまったルルとは異なり、彼は俺が見ているのを意識しつつ、故意に無視していた。そして茶番めいた台詞を重ねていく。
「しかし、私のような者を好ましく思わない方々もいらっしゃる」
「そんな連中のことは気にしなければいい」
「あなたがそう言ってくださるのなら」
彼は、青年の手をとり、臣下の如く恭しく接吻し、柔らかな声で囁く。
「私も他の人間の言葉など気にしたりはしません」
忠臣、或いは誠実な恋人を装う詐欺師の声音だった。
だがルル坊やはうっとりとしている。崇拝の眼差しで、誘惑者を見つめる。
手の甲に接吻したとき、水色の瞳の男がルル坊やの手にメモを握らせたのは、俺にもわかった。
おそらくは次の約束の日時か、それとも今夜このあと落ち合う場所でも記されているのだろうか。
ルル坊やはこちらを振り返ると、相談したいことがあると訴えかけたときとは、別人のように冷たく高飛車な声音で言った。
「悪いが、急な用ができたんだ。話はまた――」
「ああ」と俺は頷いた。
「今度、ゆっくり話そう」
青年が去るのを見送り、俺はまだ立ち去らずにいた水色の瞳の彼をふりかえった。
彼はにこりと笑った。
無視してきびすを返すこともできたのに、俺はそうしなかった。
「初めてお目にかかりますね。ジーナのサロンにはよく来られるのですか」
「ええ」と彼は愛想よく答えをよこす。「そしてあなたにお目にかかるのも、はじめてではありません。ただあなたは、私をご覧にならなかった」
「ほう」
俺は唇の端に笑みを刻み、正面から彼を見据えた。
信頼すべき直感が、警鐘を鳴らしていた。
すぐに立ち去れ、こいつとかかわるなと。
だが俺は警告を無視して、踏みとどまった。
もちろん、相手のペースにはまってはならないと警戒はしていたし、すぐに引くことができるように慎重に言葉を選んだ。
「つまり、あなたの方は俺を知っていたと?」
「興味深い方だと」
彼は軽やかに答えた。
「とても健やかで強靭な心をもっていらっしゃる。世界のどこにでも飛び立ち、何をなすこともできただろうに」
ふ、と言葉を切り、猫のようにひっそりと笑むと、彼は優しげに愚弄する言葉を囁く。
「どこにも行けずにいる」
「まるで占い師のような口の利きようだ。ジーナはその手の客人が好きだが――」
「占いを信じますか?」
「いや」
「そうでしょうとも。あなたには、占いなど不要でしょう」
「何が言いたい?」
彼は答えなかった。
ごく自然なふうに俺の隣に並ぶと腕を組み、いざなうように歩きだした。
月の光を常より白く、そして冷たく感じた。
しばらくの間、彼は黙りこくっていたが、その沈黙は静かではなくて、騒々しく心をかき乱すものだった。
「きっと、あなたはあまりにも強くありすぎるのですね」
ややあって口を開いた彼は、考え深げにそんなことを言った。くすくすと耳障りな笑い声をさしはさみ、つづけた。
「もっと心が弱ければ、いっそ楽な道を――或いは幸福とて手に入れることもできたかもしれないのに、あなた自身の欲望に、あなたはいつも打ち勝っていらっしゃるのでは?」
何のことだ――と、今度は口に出して問うことができなかった。
意味をなさない台詞だと笑い飛ばし、彼がその馬鹿げたお喋りを恥じるような警句を返すべきなのに、俺は間抜けな木偶のように黙りこくっていた。
「あとですべてを失ってしまう危険を冒してでも、ひとときでも求めるものを所有したいと願うひともいます。永久に手にいれらぬまま、耐えつづけるくらいならば――」
唇を引き結んだまま、俺は彼の顔をじろりと見下ろした。
彼は唇に笑みをため、言葉を核心から遠ざけた。
「子供の頃、美しい蝶をとらえるのに夢中になったことはありませんか」
蝶。
月下、幻惑的な蝶のイメージが心に滑り込んできた。
「私は捕えた蝶を、生きたまま、ピンで壁にとめておくのが好きでしたよ。私だけの視界に封じ込めて――私だけが知っている。しだいに弱っていくのがわかりました。その様子をみているのも愉しくて」
残酷な仕打ちだと思うよりも先に、囚われた蝶のイメージに、刹那、あいつの姿がだぶった。
くすり、と冷たい笑い声がした。
「そんな目で睨まないでください」
囁かれて、はっとした。
彼は優しげに言葉をつむいだ。
哀れむような声をなぜか不快に感じなかった。
「あなたは息をすることすら惜しんで、見つめていたいのですね。誰のもとにもやりたくはないし、触れさせたくもない。違いますか?」
「いい加減に――」
戯言はやめにしたらどうだ、とやっと口を開きかけたのに、彼は素早くさえぎった。
「そしてそんなことだって、本当のところ、あなたの望みではない」
くすくすと笑う声。
それから。
偽りの優しさの剥げ落ちた醜い声が、耳元で囁いた。
「だって、あなたはあの綺麗な子爵を抱きたいんでしょう?」
「――!」
今度こそ、俺は彼を凄まじい目で睨みつけていたと思う。
組んでいた腕を振り払った。
突き飛ばす勢いだったが、彼は端から俺の反応を読んでいたのか、見切ったように軽やかに動いて、すっと静かにたたずんでいた。
淡い水色の瞳には、ぞっとするような悪意があった。
憎しみや恨みの欠落した悪意。
こんな目をする人間を俺は今まで知らなかった。
しかも彼は優しい微笑みを浮かべていた。まるで小天使の如き、無垢の仮面だ。
俺は、凝然として立ちすくんでいた。
醜悪なのは、彼の声ではなかった。
その声が引きずり出した俺の望みだ。
彼は、俺とあいつの関係を実際に知るわけではなかった。
俺の――あいつへの恋情とて、確信していたのではないのだ。
ただサロンで、あいつの姿を追う俺の眼差しに強い感情の動きを読み取って、そうして。
歩きながら、言葉を交わし――いや一方的に言葉を投げかけ、いちいち俺の反応を読み取り、推論して語ったのだ。
だから。
笑い飛ばし、否定してしまえばいい――。
相手にしなければよかった。
動揺しているのと同じくらいに、いやそれ以上に冷静に醒めた心地で、はっきりと理解していたのに、俺は見入られたように動けなかった。
月下、彼と向き合い、その瞳に自分自身をさらしていた。
もっと彼の言葉を聞きたいと願っていた。
彼の声は、優しく俺の望みを愛撫した。
普段押し込められ、虐げられている欲望に甘露をそそいだ。
「無理にでも、欲しがらせればいい。望む快楽を教えてさしあげればいいのです。彼は知らないだけで、あなたが教えてさしあげれば――」
軽々しく誘惑の言葉を吐き出すなと、制止すべきだった。
だが。
俺は彼の言葉を待った。
「彼も求めるようになるかもしれませんよ」
月の光が視界を歪め、瞬間、あらゆる考え、言葉、想いが消えた。眩暈がした。
オレンジの香りを嗅ぎとった刹那、くちびるが触れた。
かすめるようなくちづけを。
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