OPIUM BUTTERFLY5/5


……
 回想から醒めて、俺は顔をあげた。馬車の揺れに身を任せながら、ぼんやりと外を眺める。
 アランがこちらを見て何か言いかけてやめた。
 俺は気づかぬふりをして、淀んだ闇に浮かぶ淡いガス灯の光を数えていた。
 やがて馬車がチェルシーのフラットに着く。俺は素早く降り立ち、そして席にかけたままの親友の緑の瞳を見据えて、言った。
「寄って行けよ」
「ハリー」とアランはひやりと冷たい声を出した。
「最初から酔いは醒めていただろう?」
「だったら何だ? いいから、寄ってけよ。落ち込んでるんだ。慰めろ」
「今夜はミランダが――」
 知っている。奥方がロンドンの屋敷に来ているのだ。
 いよいよあの件は本決まりというわけだ。今夜、俺が泥酔した理由。苦い笑みを隠しきれず、顔をそむけた。帰るなら、この隙に扉を閉ざし、馬車を出せばいいと――。
 だがアランは小さく息を吐き出し、静かに馬車から降り立った。
「わかった。少しだけ、付き合おう」  
 俺はふり返った。
 アランは静かに俺の顔を見つめた。案じるような、哀れむような目をしていた。それで、ふいに気づいた。
 こいつは、俺が荒れている本当の理由を察しているのだ。ただ口にはしないだけで、ルルの死にショックを受けていると信じているふりをしている。
 苛立ちが小さく爆発した。
 そんなふうな気遣いは欲しくなかった。
 視線を逸らして、俺は石段をのぼり、フラットの部屋に向かった。
 しんとして冷え切っ部屋に入り、朝方、八つ当たりして召使を追い出したのを思い出す。灯りをともし、炉に火をいれた。
 部屋の散らかり具合から、アランも朝の出来事を察したようだった。
「また出て行かれたのか」
「追い出したんだ。心配することはないさ。明日の朝には何事もなかったような顔をして、朝食の支度をしているだろう。給金をもらわず、辞めるほど殊勝な奴じゃないからな」
 そんなことよりも、と俺は無造作に切り出した。
「話せよ、例の件だ。うまくいっているのか」
「ミランダはよくやってくれている」
「ああ、そうだろうな」
 俺は呟き、煙草をくわえる。マッチを擦り、小さな炎で刹那、視界を焼く。紫煙を吐き出し、聞き間違えようのない皮肉な声音で言う。
「よく出来た奥方だ」
「ハリー」
 呼びかける声には、ごく僅かに咎めるような響きがある。
 奥方のことを話すとき、俺は慎重にならなくてはならない。毒を吐き出す量を間違えてはいけない。なぜなら、きっと、こいつは俺を選ばないから。
 奥方を守るためなら、俺を切り捨てるだろうから。
「ミランダは良い母親になるだろう」
 アランの声に、微かな不安を感じ取り、俺は眉をあげた。不安はよくできた奥方に対するものではなく、彼自身に向けられたものだ。
「おまえはどうなんだ?」
 俺は尋ねた。
「父親業をカンペキに務められそうか」
「できる限りのことをするつもりだ。世の父親たちが我が子に対して、その義務を果たそうとするのと同じように」
 だがその義務を果たせるかどうか、こいつは案じているのだ。見つめると、緑の瞳がふいに硝子のように透き通り砕けそうな気がした。
 接吻したいと思った。抱きしめたいと。だが、動かぬまま、想いのすべてを凝縮させて、静かに告げた。
「いいじゃないか。おまえは、その子のことを案じてるんだから――。まず父親として合格さ」
 俺にとっては、その子供も、奥方と同じくらいに邪魔な存在だ。だが、そんなことを口に出して言ったりはしない。
 守ると約束し、できうる限り安らぎを与えてやると誓ったのだから。
「おまえは大丈夫だよ。ちゃんとやってけるさ」
「私は、弟と妹を守ることができなかった」
 感傷のかけらもなく、ただ事実だけを振り返る乾いた口調で、アランは言った。
「守りたいとは思っていたが、私には彼らを充分に理解することができなかった。そしておそらくは彼らも私を理解しなかったのだろう。あの幼い姪――娘となるあの子供のことも未だよく理解はできないし、そして子供から愛されることもないかもしれない。だが今度は――まだ幼いあの子供には、幸せな人生を与えてやりたい」
 奪われていく気がする。
 妻や娘という絶対的な存在を、こいつが抱え込んでいくたびに、一度も得たことのないこいつを、二重に奪われていく気がして、どうしようもなく苦しい。
 たまらなく不安になる。
 大切なもの、守りたいだろう家族に、妬みの目を向ける男を、こいつはいつまで傍においておけるだろうか。
 いずれ近いうちに、俺は友情という絆すら失ってしまうかもしれない。
 ならば、ひとときでも。
 たとえ憎まれることになったとしても、手に入れてしまった方がよいのではないか。
 何一つ欲しいものが手に入らないのならば、もっとも簡単に奪いとることのできるものを得てしまう方が賢明ではないか。
 何よりもこの身に禁じている願い。殺しつづけているのに、けっして消えない、肉の快楽への欲望を――。


   抱きたいのでしょう?


 そうとも、俺はこいつを抱きたい。
 くちづけし、肌を重ね、俺だけを感じているこいつの顔を見たい。声を聞きたい。
「ハリー?」
 アランが訝しげに名を呼ぶ。
 俺は顔をそむけ、長椅子にかけた。
 あの夜。名も知らぬ水色の瞳の青年の、天使の笑みを偽る唇がささやいた言葉。
 卑劣な言葉であったはずなのに、俺には甘く、優しい響きで心をかき乱す。
 もっと大切なものがあるはずなのに。
 裏切らないと約束した。誓いをたてた。幾度も――。だが。
 俺は腕を伸ばし、アランの手をつかんだ。
「ハリー」
 アランは微かに眉をよせた。冷たい声が、俺を制止する。
 俺は顔を伏せ、その手の甲に接吻した。
 息が詰まりそうだった。
 唇をきつく噛みしめ、そして願っていた。
 どうか――
 どうか、そのままでいてくれ、と。

   手を振り払うな。
   俺を拒むな。
   もしも今、そんなことをされたら、俺は――

 不実に付けこみ、誓いを破ってしまうかもしれない。


   なぜ、あなたの欲しがるものを、そのひとに欲しがらせないのですか?


 優しい言葉が記憶の底で、誘惑する。


   あなたは彼を抱きたいのでしょう?
   無理にでも、欲しがらせればいい。望む快楽を教えてさしあげれば……
 

 俺は顔をあげた。欲望にぎらつく目で見つてめいただろう。醜い顔をしていたはずだ。
 なのに。
 アランはまるで動じず、静かな目で俺を見ていた。ほんの少し哀しげではあったが、怯えた様子は微塵もない。
 子供のように泣き出したくなった。
 きつく手を握りしめたまま、口を開いた。
「覚えているか?」
 アランは小さく首をかしげた。
 俺はほとんど睨みつけるようにして、言葉をつづけた。
「十七の頃だ。ミドラムのあの――忌まわしい呪いをおまえが気にしていると知ったとき、おまえが呪いをかけられた女王様なら、俺は救い出す騎士になってやると――」
 何を言っているのだろうと、俺は心のなかで自分を嘲った。もう十八年も前のことだ。覚えているはずがない。馬鹿げていた。
 だが、アランは静かに口を開いた。
「なぜ、私が女王なんだ――」
 俺は目を見開いた。
 それはあの日聞いたのと、まるで同じ台詞だった。
 俺はのろのろと言葉を返した。
「姫君っていうより、女王様ってかんじだ」
「そういう問題ではない。そもそもおまえのどこが騎士だ?」
「じゃあ、良い魔法使い。魔術師、だ」
 うつむき、低く笑った――声はみっともなくかすれ、震えた。
「おまえを護る」
「護ってもらう必要などはない。だが――おまえがいてくれる方がいい」
 まるで当たり前のことのように、アランは俺の記憶のなかの台詞をなぞった。俺とこいつとが共有する記憶。
 俺は――
 小さく息を吐き出す。けっして大げさではなく、本当に泣き出しそうな心地で目を伏せた。
 裏切れるはずがない。
 この世で唯一の愛する存在――けっして失いたくはない。手に入れることができなくても。
 壊してしまいたくはない。
 とても愛しくて、大切な――
「なあ、アラン」
 目を伏せたまま、俺は告げる。誓いの言葉を探す。ひょっとすると俺自身にしか意味をなさぬ誓いを、虚しく重ねる。
「子供がおまえを嫌ったとしても、おまえが子供を愛せなかったとしても、何があっても、俺は味方していてやるよ」
 俺は片手で顔を覆った。
 偽善的な言葉に反吐が出そうだった。だけど本心でもあるのだ。何があっても、支えてやりたいし、守ってやりたいのだ。そう、この俺自身からだって、守ってやりたい。
 アランは沈黙したまま、動かなかった。
 手で顔を覆ったまま、くぐもった声で俺は言った。
「以前、こうも言っただろう。愛してくれなくてもいい。だが――」
 永久に魅了していてくれ。
 ずっと変わらぬまま、
 いや変わり果てたとしても、望めば確かめられるところにいてくれ。
 
 麻薬みたいな誘惑。
 魅惑する蝶――。

 微かな吐息を聞いた。
 見上げると、翡翠の瞳に僅かに翳りが落ちる。何も言わず、アランは俺の傍らに腰をおろした。俺の方は見ようとはせず、だが右手はゆだねたまま、長椅子の傍らの小卓に投げ出してあった本をもう一方の手で引き寄せた。
 俺は顔をそむけ、ページを繰る音だけを聞いていた。
 静かな気配のなか、ゆだねられた手はぴくとも動かなかった。
 目を閉じた。
 水色の瞳の彼を思った。
 思うがままにルルを操り、おそらくはその目的を果たして、今ごろは祝杯でもあげているのだろうか。
 周囲の反対を押しきり、ルル坊やことルイ・ボナパルトが戦地に赴いたのを、人々は青年が名誉を求めた故と考え、そして不運な死を嘆いた。
 だがあれは自殺、周囲に波紋を残さぬ方法で、死に場所を求めたのだと俺は思っている。
 哀れなルルの魂を奪い去ったのは、きっとあの悪魔だ。その背後に、どんな権力或いは思想があったのかは知らない。
 ルルは、隣国フランスにとっては今も潜在的な火種であるボナパルティストらに残された希望だったし、かつての皇帝の従弟にとっては、その野心と地位を妨げる邪魔者だった。
 そんなことは、俺には関係はない。
 あの悪魔にはもう二度と会いたくはない。しかし彼の誘惑の言葉に例え誘惑されても、俺は堕ちはしないだろう。
 ただひとつしかない魂を奪うのは、ひとりだけ。俺の魂はもうとっくに、今傍らにいる「親友」のものだから。



 静かに時間が流れていく。
 俺は長椅子の隅に積み重ねたクッションに半ば身を預けたまま、動かない。
 きっとあと少ししたら、おまえは俺の名を小さく呼ぶ。答えずにいれば、もう俺が寝入ってしまったのだと思い、俺からは手放せないその手をそっと引き抜いて、立ち去る。
 ミランダのもとに戻るのだろう。
 それでもかまわない。
 だがどうか、永久に。
 おまえを愛している俺を許して欲しい。
 そしてその苦痛を騙し、救う鎮痛剤もおまえであるように。

 どうか――。

 end


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