OPIUM BUTTERFLY2/5


……
「おやおや、久しぶりじゃないの、ハリー」
 まず思い出すのは、富裕な未亡人、ジーナ・ヒギンズの低くしゃがれた独特の声。
 ジーナのサロンは、俺の気に入りの憩いの場で、たびたび足を向けてはいた。
 その夜もふいに思いついて、誰を誘うでもなく、ひとりで出かけていったのだ。
 ジーナ・ヒギンズは、年齢も素性も明らかではない。様々な噂がとびかっているが、とにかく金は唸るほどもっているのだろう。ヘイマーケットの豪邸は、彼女の好みでさまざまな様式を取り入れ、贅沢だが装飾過剰。しかし居心地はまずまずだという、ジーナそのひとにぴったり合っている。
 訪れる客たちも雑多だった。あらゆる階層、あらゆる職種の人間が自由に出入りしていた。
 そこでは、資産よりも才能、階級よりもその身の美しさ、或いは機知にとんだ話術が賞賛される。
 ひとを驚かせるのが好きなジーナは、面白ければエセ芸術家やインチキ霊媒師、明らかに詐欺師と思われる連中も自由に出入りさせていた。
 前衛的な芸術論が飛び交い、詩の朗読や新進の音楽家らの小さな演奏会、或いは交霊会などが、前触れもなくおこなわれた。
 その独特の雰囲気は適度に刺激的だ。
 鼻持ちならない連中も少なくはなかったが、そんな奴らの鼻をへし折ってやるのもまた楽しい。
 もっともこうした場を、いかがわしいと嫌い、蔑む者もいる。
 我が親友、エリン子爵アラン・ムーン・ハワードなどは、ジーナの名を聞くと、一言のコメントも口にはせず、ただ微かに眉をひそめてみせる。ジーナ・ヒギンズの世界を排斥し、その価値観を否定するのには、ただそれだけで十分というわけだ。
 しかしジーナは、アランを気に入っている。
「ねえ、ハリー。あんたの綺麗なお友達のことだけど」
「ジーナ」と俺はしかつめらしく彼女をさえぎった。
「アランのことをそんなふうに呼ぶと、ますます嫌われますよ」
「ますますって、まあ、憎たらしい口だこと。ではエリン卿だけど、もうご機嫌は直ったのかしら。ぜひ頻繁に遊びにきてほしいのだけどね。私は、男にしろ女にしろ、美しい者を眺めているのが好きなのよ」
「アランはそんなふうに見られるのは嫌いでしょう」
 ちょっとばかり、ぶっきらぼうに答え、シャンパンで喉をうるおす。
 我が親友に向けられる他者からの賞賛を聞くのは、あまり楽しくはない。あいつを独占することはけっしてできないからこそ、あいつを称え、理解し、愛する者は、俺ひとりだという幻想に浸っていたい。
「アランはもうここには来ないと思いますよ、ジーナ。あのときはたいへんでしたからね。あなたに請われて、アランをここに引っ張ってきましたが、それだって一苦労だったのに、よりにもよって降霊会で、しかも――」
 ほほほ、とジーナは扇子を口元に当てて、しゃがれた声で笑った。
「あの霊媒師も災難だったわね」
「災難? 自業自得という奴でしょう。あのエセ霊媒師は無礼だ。よりによってミドラムの狼憑きの奥方を呼び出したふりをして、何も知らないくせに、アランから逆に色々と聞き出そうとしていた」
「誰だって興味のあることですもの」
「まさかあなたが焚きつけたんじゃないでしょうね」
 霊媒師は、降霊会のあとも、ミドラムの狼憑きの伝説に興味を示して、散々アランにまとわりついた。その場では冷静に、礼を失せぬ態度で応じていたアランだが、そのあと機嫌をとるのがどれだけ大変だったか。
 ジーナは孔雀の羽飾りのついた派手な扇をゆらゆらともてあそびながら、くっくと笑った。
「ハリー。あなたが、あとで、あの霊媒師のインチキ降霊術のカラクリを暴き立て仕返ししたのを、知っているのよ」
「ああ、あれは後悔しているんですよ」
 たっぷり皮肉を利かせた声で、俺は言った。
「あのときのアランの不機嫌を思うと、今でもきりきりと胃が痛む。もっとこてんぱんにやっつけてやればよかった」
「おやおや、私の大切なお友達がロンドンでは仕事ができないようにしておきながら、まだ足りないの? 本当に憎たらしいひと」
 ジーナは怒っているわけではない。むしろ面白がっている。
 インチキ詐欺師らを、ジーナは嫌ってはいないが、それは彼らがしくじらなければ、だ。――うまくやれなかった者たちは、ジーナにとっては三流品。もう用はないのだ。
「でもまあ、かまいはしないわ。あの霊媒師は、ネクタイの趣味が悪くってね。たびたび絞めてやりたくなったもの」
「ひどいひとだな――」
 ほほほ、とジーナはまた笑ったが、その笑い声をふと止んだ。意味ありげな目で俺をみると、扇子で奥を示すような素振りをした。
 そちらに顔を向けた瞬間、どきりと心臓が跳ねた。
 ロココ風に飾り立てられた応接室の片隅、背の高い観葉植物の傍らに、すっと背すじを伸ばして立つのはアランだった。   
 他の客たちの向こうにいて、こちらに背を向けていたが、あいつだけはけっして見間違えたりはしない。
 ひとりではなくて、栗色の髪の青年と対峙していた。俺もよく知るその青年は、アランとも知己の間柄だ。まさか、あの青年に誘い出されてきたのだろうか。      
 ふたりがテラスの方に歩いて行くのを見て、俺は眉を寄せた。傍らでジーナが何か言ったが、聞いていなかった。
 馬鹿馬鹿しいとは思うが、嫉妬に似た不快な感情がざらりと胸の奥で蠢いた。
 きっとひどく恐ろしい顔をした。
 俺のあいつに対する欲望にはきりがない。
 あいつがどこで何をしていても気にしないふりをすることに決めているが、本当はその日一日、一時間、いや秒刻みででも、どこで何をして、誰と出会い、どんな話をしたのか、余さず聞きだしたい。
 だから俺の知らないところで――、つまりこうした偶然がなければ知ることがなかっただろう、秘密めかした振る舞いをされて冷静ではいられなかった。

 ひょっとすると――
 オレンジを仄かに香らせた、淡い色の瞳の彼は、このときの俺を見ていたのかもしれない。
 猫のように目を細めて、ひっそりと微笑みながら。

 俺は引き寄せられるように、彼らが出て行ったテラスに向かった。
 知り合いが話しかけてくるのには、人差し指を唇に当てて、「あとで」と声に出さずに伝えた。
 ふたりが出て行ったフレンチウィンドウの傍らで、そっと聞き耳をたてた。
 低く抑えた声が静かに話している。
 アランだ。
 ――と、それをさえぎり、うるさい、黙れ、とかなりヒステリックな声が反発した。
 これはまた懐かしいパターンだな、と俺は苦笑した。
 学生時代、アランは度々同級生や下級生のトラブルを解決してやったり、相談にのってやったりしていた。
 だが時として、あいつの好意は正しくは理解されず、感謝どころか怨まれたりすることもあった。
 あいつは自分が正しいと信じる事柄には妥協しない。他人にも自分にも同じように厳しいのだが、いい加減に生きている連中には、その厳しさは痛すぎるのだ。
 青年は――俺は陰でルル坊やと呼んでいたが、ちやほやされるのが当たり前みたいに甘やかされて育った。説教されるのに慣れていないにちがいない。感情的に言い返している。
 しかしこんなふうな口論は、結局はアランの弁舌に相手が言い負かされるのが落ちだ。
 俺としては、穏やかならざる雰囲気は大歓迎だった。割り込む口実になる。が――少しばかり出遅れた。
 我慢のきかない坊ちゃんは、理屈で叶わないのに切れて、アランにつかみかかり、柱に押しつけたのだ。
 咄嗟に飛び出したが、青年の方もすぐに我に返ったらしく、身を引いた。賢明なことだ。そうしていなければ、痛い目にあっただろう。
 アランは驚いた様子で、俺を見上げた。
 俺はにやりと笑った。
「珍しいところで会うな」
 皮肉な口調になるのを極力抑えねばと思ったのだが、皮肉どころか声は明るく弾んでいた。自動的な切り替えがすっかり身についているらしい。
 アランは小さくため息をつき、眉をつりあげたが、何も言わない。ふと耳に手を当てた。柱にぶつけたときにかすったようだ。     
「怪我を?」
「いや、平気だ」
「みせてみろよ」
「平気だ」とアランは、不機嫌に俺の手をはらいのける。
「いけませんわね。手当ていたしましょう」
 わずかにしゃがれた独特の声が背後でして、振り返ると、サロンの女主人が立っていた。
「私にも何かおっしゃりたいことはおありでしょう?」
 ジーナは、何やら意味ありげにアランに笑いかけた。
「それに小さな傷だからといって、馬鹿にしているとあとでたいへんなことになりますわよ。消毒なさった方がいいでしょう」
 アランは、ほとんど無表情にジーナを見つめたが、「わかりました」と冷たい声で言った。彼女が何らかの情報を提供しようとしているのを察したのだ。
「ハリー」
 ジーナはこちらを振り向くと、アランの横顔から俺の視線を引き剥がし、人差し指をたてて、小さな子供に言い聞かせるような口調で言った。
「泣き出しそうなお友達を慰めてさしあげて」
 泣き出しそうなお友達――?
 俺は眉をよせた。
 すっかり忘れていたが、二歩ほどさがったところに、ルル坊やが軽くくちびるを噛み、棒のように突っ立っていた。
 確かに泣き出しそうな顔をしていた。
 本当のところ、泣き出しそうなこのお友達のことなど、どうでもよかった。
 適当にあしらっておくつもりだったが、アランが気がかりそうな視線を寄越した。
 ルル坊やが抱える問題を聞きだして欲しいというのだと察した。
 滅多に俺になぞ頼ったりしないが、時折、ごく自然に信頼を寄せてくれるのは嬉しいし、期待を裏切りたくはない。諦めて居残ることにした。
 ジーナとアランを見送ったあと、俺はルル坊やに向き直った。
 ルイ・ウォーターと名乗る、スペイン人の母とフランス人の父をもつ、イギリス連隊の士官殿。     
「どうしたんだ。随分と機嫌が悪いな。誰だったか……あの美人さんと喧嘩でもしたのか?」
 尋ねてやると、ルルー坊やはびくりとした様子で顔をあげた。
「ああ……あなたが言うのは彼女のことですね」
 おやおや、と俺は内心呟いた。アメリカにいた頃だったら、口笛でも鳴らしたかもしれない。
 俺が言ったのは、最近この青年が付き合っていた女で、確かロティと呼ばれていた。
 赤毛の愛らしい娘で、ルルはぞっこん惚れこんでいたのだ。
 アランが口出ししたのは、この恋愛じゃないかと鎌をかけてみたのだが、大きく外れたようだ。
 いや、「大きく」という程でもない。ルルは、俺が誰か別の「美人さん」の話を持ち出したのかと、最初ぎくりとしたふうだった。
 つまりロティ以外の別の女が問題になっているということだ。
 察しはついたが、がつがつ質問するのは得策じゃない。少し歩かないかと、俺はルル坊やを庭に誘った。
 暫くふたりとも黙って歩いていたが、やがて思いつめた顔をして、ルル坊やが俺を見上げた。
「あなたには聞いて欲しいことが……」
「エリン卿には話せなかったことか?」
「ああ……エリン卿には申し訳ないことをしました。最近、少し感情的になりがちで……」
 青年は先刻の自分の行為を恥じているようだった。彼は根は優しく、どちらかという寡黙な質だった。
「自分でもどうかしているのはわかっているんです。おそらく母が案じて、エリン卿かミドラムの伯爵に相談したのでしょう。卿には失礼なことをしました。あとで詫びます」
「その方がいいな」
「あなたのお友達なのですよね。エリン卿は――」
 友達――
 そして想い人だ――とたとえ冗談めかしてでも付け加えたりしたのが、万が一、あいつの耳に入れば大変だ。その結果を思い描いて、小さく笑った。
 あいつは案外短気だし、根に持つタイプだ。
 あいつにとっての禁忌に触れたときは、痛い目をみる。
 あいつは俺に対して特に厳しい。他の人間に対してより、感情を表に出してくる。それは俺にとっては、密かな歓びだ。特別な存在である証だから。いやもろちん、俺が唯一の特別であるわけではない。
 あいつには大切な大切な奥方がいる。
 ちっとも美人でなくて、才知に長けているのでもなくて、ダンスが巧いわけでもなく――
 だが優しく包み込む――。
 まるで春の陽射しのような、微笑みの似合う、あの女。誰といるときよりも、彼女の傍で、あいつが寛いでいるのがわかる。それ故妬ましい。狭量な俺は、親友が良き伴侶を得たことを心の底から喜ぶことはできない。
 あの女がいなくなったからといって、俺があいつを手にいれることができるわけではないが、それでも。
 たとえば不慮の事故で彼女が亡くなったとしても、俺は悲しまないだろう。
 そして。
 思うだけでひとの命を奪うことができるなら、彼女は今ごろ、冷たい土の下にいるかもしれない。

「ただひとつのことだけ――ただひとりのひとにだけに夢中になったことって、ありますか?」

 月の光が流れる雲に覆い隠されて、サロンの光がぼうっと異世界のように浮かび上がる。
 どこか幻惑的な暗い庭を歩きながら、ルル坊やが口にしたのはそんな問いだった。
 しんとして、互いの表情を確かめるのにも充分な光のない、ひっそりとした空気が、普段心に押し込めている想い、そして迷いを誘い出したのかもしれない。
 俺は急かさず、青年が先を続けるのを待った。
「気がつくと、そのひとの面影が心のなかに滑り込んでくる。考えずにはいられないんです」
「恋を――」
「恋なんかじゃなくて!」
 激した声でさえぎり、青年は己の声にぎくりとしたふうに身をすくめた。
「すみません……恋よりも……もっと絶対的な――」
 微かに震える声で、ルル坊やは続けたが、語尾はあやふやになり、聞き取れないくらい小さな呟きのなかに消える。

 恋ではなくて――
 もっと絶対的な。
 
 例えば。

 麻薬のような
 逃れられない誘惑。

「あるだろう」
 俺は低く答える。
 ルルー坊やは、はっとしたふうにこちらを見上げた。
 俺がただ、一般論として、彼の言葉を認めたのではなくて、共感して呟いたのを聞き取ったのだろうか。

 きっとあと十分もあれば、ルルーは俺にすべてを打ち明けていたはずだ。
 だがその心の鍵が開きかけた、まさにその瞬間。

「ここにいらっしゃいましたか」
 ふいに投げかけられた優しい声音が、ルルの心を二重に施錠した。

 振り返ると、見知らぬ若い男が立っていた。
 折りよく雲間から月の光が零れ落ち、その優しげな姿をひっそりと浮かび上がらせた。
 淡い金髪と水色の瞳、ほっそりとした体つきに、上品なデザインのスーツを粋に着こなしている。 
 ルルがびくりと震えるのがわかった。まるで姦通の場を押さえられた新妻のような怯え方だ。
 だがふいの闖入者は、穏やかな視線をルルに注ぎ、優しく語りかけてきた。
「ご歓談の邪魔をしてしまったのでは」
「そんなことはない」
 ルルは明らかに様子が変わっていた。
 怯えているくせに、さっきまでどんより曇っていた瞳には光が戻っていた。
 ちらりと俺を見上げたが、その目は先刻とは大違い。
 俺を邪魔者扱いし、さっさと立ち去れと命じていた。
 むろん俺は気を利かせたりはせずに、その場に居残った。
 水色の瞳の若者は、そんな俺にちらりと笑みを投げかけたが、すぐにルルー坊やに視線を戻す。柔らかに言葉を紡ぐ。
「最後にお会いしたとき、少しご気分を害してらっしゃったようなので、もうお会いしてはいただけないのかと案じていたのですよ」
「気分を害したりなんか――」
 ルルは追いつめられたような目をして、頬にわずかに血をのぼらせた。
「あれは私が悪かったんだ。それで――」
「今夜もここでだいぶお探ししたのですが、お姿がなかったので、お越しになっていないか――或いはもうお帰りになったのだと」
 優しい声には、ほんの少しだけ、上っ面だけの謝罪で包まれて、神妙なふうに聞こえなくもない。だがその実、ルルを責めている。
「もっとも私は少し約束の時間に遅れてしまいました。あなたを待たせてしまったのだとしたら、謝罪しなくては――」
「そんなことない。あなたが謝ることなんかないよ」
 ルル坊やは必死の様子で否定し、かき口説くように言葉を連ねる。
「あなたは悪くはない。あなたと約束しているのに、帰ったりしないよ。待っていた。来てくれるって、信じていた。あなたを信じていた。信じている……」
 声はしだいに熱を帯び、すがりつくかのようだ。
 水色の瞳の彼はずっと微笑をたやさず、一言も言葉を差し挟まず、ルルが激情を吐露するに任せていた。
 ルルにとっての絶対――、恋以上の熱情を捧げるのは彼にちがいなかった。
 ルルの熱っぽい言葉は、向けられた相手の心には響かず、言葉を放つ本人に暗示をかけていた。
 そして。
 微笑んでいる彼は、そうしたことをすべて承知しているに違いなかった。


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