ある日のことだ。ラコステとフー・ファイターズが昼の講義に勤しんでいると、そこへ客がやってきた。スクリレックスで作った水たまりの上を、誰かが歩いている感触がある。人が来たら分かるようにと倉庫の周りに張っておいたものだ。
 ラコステはフー・ファイターズに隠れているよう言って、倉庫から出た。そして客の姿を見てにわかに眉をひそめる。相手は看守だった。
「お前……ここの管轄のやつじゃあないな。どこの看守だ? なにしに来た?」
 広大な敷地を持つ水族館では、警備を細かく分担している。この農場と湿地帯を中心としたエリアに割り当てられている看守は、ラコステの他に八名。全員の顔と名前を覚えているが、目の前の男は知らない。
「……あー……オレは内勤のトーマス・バーバリー。ちょっと用事があって来たんだ。警棒を下ろしてくれ」
「……知らないな。本当に看守か?」
「本当だよ。IDカードだってちゃんと持ってる……なあ、警棒を下ろしてくれないか?」
「………………」
 ラコステは応じない。警棒で相手の気を引き付けて、こっそりと背後に沼を作り出した。男が逃げようとしてもすぐに捕まえられる位置だ。
「知ってるか? 二年前のことだ。脱獄を企てた囚人が、看守を襲って服とカードを奪い、そいつに成りすまそうとした……」
「おいおい……オレは囚人じゃあない。看守だ。IDカードを渡すから確認してくれ」
 男がそう言って、ラコステに一歩近づいたときだ。倉庫で待っていたはずのフー・ファイターズがいつの間にか足元の水場から現れて、そして叫んだ。「ホワイトスネイク!」
 ラコステはフー・ファイターズと男とを交互に見る。そして眉をひそめた。「……ホワイトスネイク?」
「ホワイトスネイクだ。彼はホワイトスネイクだ! 危険はない。彼はホワイトスネイクだ」
 フー・ファイターズが繰り返す。男はしばらく動かなかったが、やがて考えがまとまったのか、ふうと息をついて話し始めた。
「……そうだ。私はホワイトスネイクだ……ラコステ・ロッコバロッコ、久しぶりだな。スタンド能力を気に入っているようでなによりだ」
「……看守だったのか」
 ラコステは目の前の男をじろじろと眺め回した。ごく普通の男だ。三十代前半くらいの。なぜ前回会ったとき、顔を思い出せなくなったのだろう? あまりに平凡すぎて印象に残らなかったのだろうか?
 それでも看守ということすら忘れてしまったのは、どうもおかしい。ラコステは念のためにと相手の名を深く脳裏に刻み込んだ。内勤のトーマス・バーバリー。
 ホワイトスネイクはラコステの言葉に対して否定も肯定もせず、フー・ファイターズの方に顔を向けた。
「しかし、驚いたな。最近妙に口が上手くなったと思ったら……君が教えていたのか」
「……こいつを知っているのか?」
「もちろん」力を抜いたホワイトスネイクが片足に体重をかけ、腰に手を当てる。「よく知っている」
「フー・ファイターズは……こいつは、何なんだ? UMAか?」
「これだけ話せるようになったのなら、彼の方から話すだろう。私の用事というのは、これだ」
 まるで手品のように、ホワイトスネイクの手元に円盤状のものが現れた。CDやDVDのように見える。
「それは?」
「DISCだ……私の能力だ。君のスクリレックスもこんな形をしている。これに入っているのは能力ではなく指示だが……体内に挿入することで発動する」
 不穏な証言だ。ラコステは口元をゆがめた。「体内?」
「ああ、心配しなくていい……皮膚を切り開いたりはしないし、口から飲み込むわけでもない。健康には影響しないよ。ただこうやって……」
 突然、ホワイトスネイクがDISCをフー・ファイターズに向かって投げつけた!
 ラコステはぎょっと目を剥いた。DISCがフー・ファイターズの頭に当たったと思ったら、そのままざっくりと突き刺さったのだ。
 咄嗟に警棒を振って長く伸ばし、そのままの勢いでDISCに当てる。弾かれた円盤はあさっての方向に飛んでいった。
「……体に入れるだけだ、と言いたかったんだが」
「言ってからやってくれ。何を入れようとしたんだ?」
「さっき言っただろう? 指示だよ。少し前に言った“農場の番人”が彼だ。一日に一回、DISCで指示を出している」
「……どんな指示を?」
「それは君の知るところではない。だが、まあ、そうだな。毎回同じ指示だよ。面倒だが、毎日やってやらないと忘れてしまうようなので」
「溶媒を間違えたかな」と小さく呟いて、ホワイトスネイクが新たなDISCを取り出した。ラコステに「今度は静観していてくれ」と忠告して、近距離からそっとフー・ファイターズの頭に差し込もうとする。
 しかし相手がそれを嫌がった。じりじりと後退して、DISCを挿入されまいとする。
「……またか。ここ一週間ずっとこうだ……なにを嫌がっている? 君の使命がここにあるというのに……」
「それを頭に入れる、私は忘れる。それによって、私は忘れる」
「忘れるから指示を入れようとしているんだぞ」
「私は忘れる。それはいけない。私は拒否する。なぜなら、私は言葉を忘れるからだ」
 必死の訴えを横で聞いていたラコステは、あることに思い至った。ホワイトスネイクとフー・ファイターズの間に警棒を差し入れる。「ホワイトスネイク、これは仮説だが」看守がDISCを持った手を下ろしてラコステを見る。
「そのDISCが原因なのかもしれない。お前はさっき、フー・ファイターズの物覚えが悪いというようなことを言ったな。確かにそうだ。彼に言葉を教えているが、翌日まで覚えていられるのは六割と少しといったところ……そのDISCを挿入されることによって、記憶が阻害されているんじゃあないか? 彼はそう言っているように思える」
「そうだ。“記憶が阻害されている”!」
 フー・ファイターズが言葉を繰り返した。ラコステがいつも読み聞かせのときにやっているのと同じ口調だ。小さく咳払いをしたあと、ラコステはホワイトスネイクに向き直った。ほら、と言った顔で。
「……その仮説が本当だとして……他にどんな方法があるというんだ? 途中で忘れられては困る指示なんだ」
「……言えばいいんじゃあないか。口頭で。こいつはあんたが思ってるよりずっと頭がいい」
 ただ本を何冊か音読してやっただけで、最低限の会話に必要な文法と単語を覚えることができたのだ。その気になればシェイクスピアや聖書の一節だって丸暗記できるだろう。記憶力を抜きにすれば、フー・ファイターズの賢さは人間のそれとほとんど遜色ない――し、それ以上かもしれない――。そしてその弱点である記憶力も、DISCの妨害がなければ改善されるというのだから。方法は一つだった。
「……分かった。君の案を採用しよう。ロッコバロッコ看守、席を外してもらっても? フー・ファイターズへの指示は内密にしておきたいんだ」
 ラコステは渋りつつも最後には頷き、警棒を仕舞った。
 そして刑務所の建物に戻ろうとしたが、図書室の本を倉庫に置いてきたことを思い出した。ホワイトスネイクに一言「本を忘れた」と言って、倉庫の中へ取りに行く。
 今度こそ帰ろうとしたとき、すれ違いざまにホワイトスネイクがラコステを引き止めた。「ところで」
「どうやって言葉を教えたんだ? 口頭でか?」
「……本を読み聞かせたんだ。今読んでるのは『コズミック・ライフ=フォース』」
「なるほど」本の表題を見て、ホワイトスネイクが納得したようにくつくつ笑った。
「どうりで堅苦しい口調で喋るわけだ」


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