きっとこいつは言葉を知らないのだ。目の前のものが何かは分かっていても、それを表す音を知らない。だから呼びかけに応じることはできるが、意味のある言葉は返せない。
 ならば教えてやればいいのだ。


「……“生物が進化するとは、DNA分子の塩基の配列が変化するということなのだ”」
「生命が進化する、分子、の、配列、変化ことなのだ」
 ラコステが言ったことを、例の生き物が繰り返す。
 雄弁な人間だったらよかったのだが。あいにくとラコステは無口な方で、会話は苦手だ。業務連絡はきっちりやれても世間話はろくにできない。だから、単語を覚えさせるのには、本を使うことにした。
「“地球の生物を進化させたのは、宇宙からきたウイルスなのだ”」
「地球の生物、進化させた、ウイルス、宇宙からきた」
「そうだ。“宇宙から来たウイルスなのだ”」
 本来なら、絵本や教育書でもって、絵や写真を示しながら教えていくのがいいのだろう。けれど刑務所の図書室にそんなものがあるわけもなく。ラコステが借りてきたのは自分の趣味の本だった。学生時代に読んでいた学者の著書。ポール・デイヴィス、ジョージ・グーリンシュタイン、そしてフレッド・ホイル。赤子に読むようなものではなかったが、どうやらフー・ファイターズは人間の幼児よりはるかに賢いようで、次々と言葉を覚えていった。
 そう、「フー・ファイターズ」。ラコステの教えていない言葉はもう一つあったのだ。彼の名前だ。二度目に出会ったとき、自らそう名乗った。
「……今日はここまでだ、フー・ファイターズ。続きは明日にする」
「続きは明日」
「そうだ。ワニに近づくなよ」
「了解した」
 そろそろ昼休みが終わる時間だ。ラコステは本を抱えて立ち上がり、農場の倉庫を出て行く。一度振り返るとフー・ファイターズが入り口のあたりから顔を出しているのが見えた。見送っているのだろうか。
 ラコステがフー・ファイターズに言葉を教えようと思ったのは、聞きたいことがあったからだ。
 まず「ママ」のこと。彼が「ママ」と言って飛び掛ろうとしたワニは、実際、ママだったのだ。あれは子ワニたちの面倒を見ている母親ワニだった。
 次に、ラコステに向かって言った「おまえ、とり、しる、めし、にく」のこと。単語の順番は失念してしまったが、この五つを言っていたのは確かだろう。こっちの方はまるで分からない。フー・ファイターズは何を伝えようとしていたのか?
 四度目のレッスンのとき、ラコステは彼に尋ねた。初めに言っていたことは何だったのかと。そろそろ自分の意思を正確に伝える語彙が備わっただろうと踏んでのことだ。しかし答えはこうだった。
「なんのことか分からない」
 フー・ファイターズはその日のことを覚えていなかった。知能は高いが、記憶力は低いらしい。前日のことすら曖昧で、ラコステが教えた単語も次の日になると三分の一ほどは忘れてしまっている。
 それでもレッスンを続けたのは、自分の教えたことを素直に信じて吸収していくフー・ファイターズが、少しだけ気に入ったからだ。
 ラコステのワニに対する執着やそれを生み出した宗教観は、理解されないことが多かった。もともと少数派の学説に自分の好みや独断を加えているのだから当然だ。叔父にすら困った顔をされたことがある。
 そんな話を一切の否定なく聞き入れ、なおかつ真剣に学んでいくフー・ファイターズという存在は、新鮮で面白い。
 彼はラコステの心の中に小さな居場所を確保しつつあった。


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