時は少し遡って、ラコステがフー・ファイターズに本を読んでやろうと思い立ったときのこと。つまり、彼に出会った日と、最初の講義をした日との、間の出来事だ。
 早朝、ラコステは誰もいない図書室を訪れた。まだ司書や看守すらも位置についておらず、辺りはしんと静まり返っている。
 図書室に入るのは初めてだった。部屋の隅から隅までをきょろきょろと見回して、壁にかかった案内板を見つける。ざっと目を通していって、子供向けの本のコーナーがないことを確認した。
 まあ、そうだろうなとは思っていた。有名な児童小説ならいくらかあるかもしれないが、それは読む気になれない。仕方がないので、近くの本棚から順番に見ていくことにした。
 ぎっちり並んだ本の背表紙や埃っぽい匂いに囲まれていると、学生だったときのことを思い出す。二年半ほど前だ。それほど遠くはない。けれど懐かしい気分に誘われて、ラコステはいつの間にか当時読んでいた本を手に取っていた。
 適当な場所を開きながら近くの椅子に腰掛け、文字列を目で追っていく。読み進めていくうちに座り心地が悪くなってきたので、腰の位置をずらしてみたり、足を組んでみたりする。
 そして痺れてきた足を組み替えようとしたとき、ブーツの踵が椅子の硬いところに当たってゴンと大きな音がした。同時に「いて!」と甲高い声が上がる。
 そこで気づいたのだが、ラコステが座っていたのは椅子ではなかった。円柱形で、座面はプラスチックのような薄い皮が張ってあり、周りは銀色に縁取られている。それは楽器だった。ラコステはその名前を知らないが、ドラムの一種だということは分かる。ドラムセットの真ん中に設置されているような大きいやつだ。どうりで座り心地が悪い。
 先ほどの声の主は「しまった!」と思ったのかしばらくじっと身を潜めていたが、ラコステがドラムをひっくり返してやると、観念したのか、穴の中から「ハイ」と小さく挨拶をした。無理やり作ったような笑みが引きつっている。ドラムは片側の皮が破いてあって、ぽっかりと穴が空いていた。ちょうど鍋かバケツを逆さにしたような形だ。
「誰だ? どこから来た?」
「あ、あっちの音楽室から……」
 子供はドラムの中から這い出てくると、居心地悪そうに野球帽を被りなおした。
「このドラムは何だ?」
「……これを被って移動してるんだ……。ほら、こうやって……」
 子供が再びドラムの中に入り、実演してみせる。ドラムの下から細い足が二つ覗いて、ひょこひょこと前へ歩き出した。奇妙な光景だ。当然ながら目は見えないらしく、本棚にぶつかって倒れる。
 すったもんだの末になんとか自力で起き上がった子供が、ドラムを脱いで、また帽子を被りなおした。
「……いつからここに?」
「お兄さんが来たすぐあとに。檻が開いてたから、入ったんだ」
 ラコステは顔をしかめる。どうせ誰も来やしないと思って、門を開けっ放しにしていたのだ。実際、担当の看守はまだ来ていないし、囚人が出歩ける時間でもない。問題はないはずだった。数分前までは。
 得たいの知れない子供だ。本来なら警備主任に報告しなければならない。しかし報告すると、自分の怠慢も明るみに出てしまう。管轄でないところを出歩いていたというのもマイナスポイントだ。状況は芳しくない。
 ラコステが難しい顔で黙りこくっていると、不安になったのか、子供が慌てて喋り始めた。
「あの、お願いします。僕を見逃してください。なにも悪いことなんてしません。ただちょっと、本を読みたかっただけなんです」
「……見逃す?」
「はい。なんならお金も払います。そんなにいっぱい持ってないけど、二十ドルくらいならあるんだ」
 子供がポケットを漁ってしわくちゃの紙幣を出してくる。ラコステはそれをまじまじと見て、「そうか、その手があったな」と呟いた。賄賂を貰って便宜を図るとは、水族館の看守らしい行いじゃあないか。
「分かった。お前のことは黙っておく」
 ラコステは金を受け取る。しかしポケットには仕舞わず、それをそのまま子供に押し返した。「え?」一瞬ほっとした顔を見せた子供が、また不安げに眉を下げる。
「二十ドルやるから、お前もこのことは口外するな」
「えっと……?」
「僕は看守なんだ。お前の侵入を許したのはまずい」
「ああ、うん……?」
「とにかく、内緒にするんだ。いいな? あと、二度と看守に見つかるんじゃあないぜ。バレると面倒だからな。僕も困る」
「わ、わかった。ありがとう……」
「いや。ところで……ドラムはやめた方がいいんじゃあないか? 目立つぞ。せめてゴミ箱にした方がいい」
 ろくに見もせずに椅子だと思い込んで座った自分の言えた義理じゃあないが。部屋の角に置かれたゴミ箱を指差して言うと、子供は神妙な顔で頷いた。
「そうするよ。前が見えなくて不便だったし」
 小さな手が額をさする。聞くと、さっき本棚にぶつかったとき、帽子のつばが当たって痛い思いをしたらしかった。


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