スポーツ・マックスは何を間違えたのか? 答えは明白だった。ラコステがワニを愛しているのは、ワニが古来からその姿や生き方を変えていないからだ。ラコステは神を信じている。神、すなわち宇宙にある知性が、全てを創ったと思っている。そして被造物は、神が創ったそのときのままの姿で、そのときのままの生き方をするのが自然なのだ。人間も例外ではない。本来はそうすべきなのだ。 しかし二十一世紀において原始人並みの生活をするというのはかなり難しいので、十歳になるころには自然の一部でいることを諦めていた。その代わり、ワニに自分の思想を寄せた。 自然に生きるのだ。自然から生まれて、自然に生き、自然に還るのだ。それだけが尊い。 スポーツ・マックスは口が上手かった。ラコステの好みを的確に把握して、気持ちのいい会話を作った。けれど前提からして間違っていた。どれだけ上手く取り入っても、どれだけ金を積んでも、ラコステがワニの死骸を受け渡すことなどない。 死んだ生き物は、鳥に啄ばまれ、虫に食われ、朽ち、土と混じるべきなのだから。防腐剤を撒いた皮の中に発泡スチロールを詰めるなんて考えられない。神への冒涜もいいところだ。 「そうは思いませんか、神父様」 ラコステは礼拝堂を訪れていた。昼食の時間だったが、看守の休憩室には戻りたくなかった。ベンチに腰掛けてぼうっと祭壇を見つめる。ろうそくの火がすきま風に煽られて小さく揺らめいている。 「……君は相変わらず難しいことを言う」 隣に座ったプッチ神父が言った。本のページを捲る乾いた音が止まる。 「いいえ。難しいことなどなにも。剥製は神への冒涜だと言っているだけです。土に還すべきだ」 「そうかもしれないな」 「かも、とは?」 「そうでないかもしれないということだ」 パタン、と本が閉じられた。ラコステは音につられて神父の手元を見る。旧約聖書だ。使い古したハードカバーはあちこちに傷がついている。 「鳥の巣を見たことは?」 「あります」 「ビーバーが、枯れ枝や泥をかき集めて、川に手製のダムをこしらえるのは知っているか?」 「はい。本で読んだ。それが何です?」 「他のものを利用して何かを作るのは人間だけじゃあないということだ」 プッチ神父が立ち上がり、ベンチ横の通路に出た。手招きでラコステに立ち上がれと指示する。ラコステは眉をひそめながらも素直に従った。神父のあとについて祭壇の方へ歩いていく。 「……でも、鳥やビーバーは生きるために作っているんですよ。娯楽のためじゃあない。彼らはそうしないと生活に支障が出るからそうしてるんだ。いたずらに命を弄ぶ生き物なんていませんよ。人間以外は」 「もっともだな」 礼拝堂の一番奥まで来ると、プッチ神父は祭壇に目もくれずその脇の暗がりへと消えていった。ラコステは立ち止まって台の上に視線を流す。色も大きさも見事な花々が大きな花瓶に活けられていた。これも剥製と同じだ。弄んでいる。 「ラコステ? こっちへ来ないか?」 暗がりの中から神父が声をかけてきたが、「そっちには何が?」と聞き返して、動かなかった。プッチ神父の行った方には聖具室があったはずだ。あやふやな記憶が合っていれば、だが。ラコステはそこに用はない。 こっちが動こうとしないのを察してか、プッチ神父は「じゃあ少し待っていてくれ」と言ったあと、少しして戻ってきた。さっき聖書を持っていた手に、りんごや梨をいくつも抱えている。 神父はそれをラコステに次々と押し付けていった。 「これは?」 「りんごと梨だ」 「見れば分かります」一つ取り落としそうになって慌てかけたが、プッチ神父がさっと宙で拾ってラコステの腕に戻した。 「君、昼食を食べていないだろうと思ってね。これを食べるといい。大した腹の足しにはならないかもしれないが、ないよりマシだ」 「それで、さっきの話だが」何て返事をしようか迷っている隙に、神父は話題を変えてしまった。もうラコステが果物を受け取ることになってしまっている。「人間以外は、と言ったね。君、人間以外は、と言った」 「言いました」 「そこだよ、論点は。ラコステ・ロッコバロッコ、君は人間が他の生き物と本質的に違っていることに気づいていない」 両手に抱えた果物を見ていたラコステは、顔を上げて神父をまじまじと見た。自然と眉が寄って不審げな顔になる。 「……と、言うと?」 「人が何のために生殖以外の機能を持っているかということだ。考えることや、歌うこと、作品を生み出すことは、子孫の繁栄と直接は関係ない。私たちが求めているのはパンと安全な寝床だけではないのだ。その二つより遥かに強く求めているものがある」 教戒師という職業柄か、プッチ神父の語り口はなめらかで深みがあり、耳を傾けたくなるような質感を持っている。ラコステは表情を崩さないながらも無言で先を促した。 「幸福だ。人はみな、幸福を求めている。幸福に向かって生きているのだ」 「……パスカルですか?」その言葉にうっすらと覚えがあったのでそう言ってみたが、神父は軽く否定した。「いや、私の友人の言葉だ」 「……ああ、私の言葉かもしれないな……どちらにしろ同じことだ。彼の思想のいくつかは私の中に染み付いてしまっている」 「……それで、結局、どうして剥製が冒涜じゃあないっていうんです?」 「私はもう、答えをくれてやったつもりだよ。それに『冒涜ではない』と言ったわけじゃあない。そうかもしれないし、そうじゃあないかもしれないと言っただけだ」 「このりんごは蜜がたくさん入っていてとても甘いよ」と神父が赤いのを一つ指差す。隣の梨は少し甘さがしつこいから水と一緒に食べた方がいい、その緑の多いりんごは少しすっぱいだろうから先に食べた方がいい…… 「このツヤのないりんごはあんまり美味しそうじゃあないな……代わりのを持ってこようか?」 「いえ、結構です。僕もう行きますから」 「そうか。君に神のご加護がありますよう」 「どうも」 ラコステは果物を両手に抱えたまま礼拝堂を出た。ちょうど昼休みも終わったようで、廊下では見知った看守が二人立ち話をしている。そいつらにりんごと梨とを無理やり押し付けて、ラコステは足早に持ち場へ向かった。神父から貰ったものだからといって、ありがたく頂戴する気にはなれなかった。それより、さっきの会話の記憶と一緒にどこかへ追いやってしまいたかったのだ。 プッチ神父が曖昧な言葉で説いたことは、ラコステが一番不可解に思っていたことだった。なぜ人は考え、歌い、自分の幸せなどというものを求めるのだろう。一人の人間が不幸でも、人類は続いていくのに。 |