その日のラコステは朝から苛立っていた。ミューミュー看守にからかわれたからだ。
「あんたのワニ……そろそろ二歳だっけ? 知ってる? グッチのバーキンを作るのには三歳のワニの皮が二枚あればいいのよ」
「ちょうど頃合よね」と続けた女の横っ面を、あともう少しで殴り飛ばすところだった。彼女は何が楽しいのか、ときどきこうしてラコステに絡んでくる。そしてラコステの眉間にこれでもかと皺が寄ったのを見て、ニヤニヤと嫌味ったらしい笑みを浮かべるのだ。
 ラコステがとった対応といえば、こうだ。無言でコーヒーを飲み干し、休憩室を出る。それだけ。構うだけ時間の無駄だと判断したのだ。それにあいにく刑務所の職員だったので、先に手を出したやつがどれだけ不利になるかはよく知っていた。我慢するしかないのだ。

 ミューミューの言うとおり、例の水族館から寄贈された子ワニが二歳になるところだった。つまりラコステがワニの飼育係となってからも二年が経過する。
 あっという間の時間だった。ラコステにとって、ワニのそばで日々を過ごせるのがこの上なく幸せだった。毎日三回は湿地帯へ行き、ワニに餌をあげ、一匹一匹の様子を注意深く観察した。餌の鶏肉が大きすぎて食べづらいようであればナイフで半分に裂いてやったし、病気や怪我で弱っているやつがいれば近くに拵えた檻の中に移してやった。治療をしてやるわけではなかったが、それだけはすることにしていた。「何もかも自然に任せた方がいい、適者生存だ」という思いと、「少しでも早く回復し、一匹でも多く生き延びられるように」という思いの、ちょうど中間の対処だ。
「きみ、元気がないね。一人だけ餌を食べてないじゃあないか」
 ラコステは一匹の子ワニに目をつけた。数日前から気になっていたやつだ。他のと比べて動くのが遅いし、一箇所にじっと留まって具合悪そうにしていることが多い。
 さて、どうしようかと息をつく。具合の悪いのは檻に隔離して安静にさせておきたいが、ここ一年はそうもいかない事情がある。元からこの土地に住み着いていたミシシッピワニのメスが、この子ワニたちの母親代わりを務めだしたのだ。今ではすっかり母親気分で子ワニをあれこれ世話している。
 ラコステはワニの飼育係に任命される前から勝手に野生のワニたちを世話していたので、母親ワニとも顔見知りではあるのだが。義理の親子といえど母親は母親だ。子を守るためならなんでもする。野生動物のそれは特に。
 顎に手を当てて、母親の気を逸らす方法を考えていると、後ろから誰かの気配がした。ぬちゃ、ぬちゃ、とぬかるんだ地面を踏みしめる音も聞こえる。
「ここにいらしたんスか、ロッコバロッコ看守」
 振り向くと、そこにいたのはある男の囚人だった。ここ数週間なにかにつけて付きまとってくるやつだ。
 もう一歩踏み出そうとした囚人を、ラコステは声で制する。
「待て! それ以上近づくな……」
「お忙しいところすみません、ちょっとお話したいことがありまして……」
「待てと言っているだろ。足を食いちぎられたくなかったら、そこで止まるんだ。ここにワニがいるのが見えるか?」
「ええ、はい。見えますが」
「この大きいのが母親で、小さいのが子供。ミシシッピワニとイリエワニの親子だ……そしてその子供が一匹弱っている。母親は気が立っているぞ。お前があと一歩踏み出したら、何をしでかすか分からない」
「弱っている? どうして?」
「さあ。僕が知りたい」ラコステは鶏肉を食べ終わって一息ついているワニたちを一瞥し、囚人に向き直った。「お前、何でこんなところにいる?」
「今は労働の時間っスよ。オレは今日、農場で除草剤を撒く係りに立候補したんだ」
「やってないじゃあないか」
「それはほら、他の囚人がどォ〜〜〜〜しても自分ひとりで除草剤を撒きたいっていうんで、仕方なく……」
 見張りの看守は何をやってるんだ。ラコステは眉を寄せて男の手首に目をやった。ライク・ア・ヴァージンはしっかりついているが、その反対の手首に看守用の親機もついている。これでは全く意味がない。一体いくら積んだらこんなことが出来るのだろう。薬でも渡したのか?
 分からなかったが、ラコステには興味のないことだった。看守の不正も賄賂の蔓延も、どうでもいい。眼中にあるのはワニのことだけだ。叔父が所長をしている施設で働いておいて不義理かもしれないが、事実そうなのだから仕方がない。この話をさっさと終わらせてワニの世話を再開したかった。
「で、話したいことって?」
「ええ、あの、いやあ。やっぱり実物のワニはいいですね。すばらしい」
 男が首を伸ばしてラコステの背後に目を向ける。ラコステは男の足元に視線を落とした。普段は気取った革靴を履いていたが、今日はゴムの長靴だ。農場の倉庫から引っ張り出してきたのだろう。ピカピカの白いスーツとこの上なくミスマッチだ。
「実のところ、見張りの看守に『ロッコバロッコ看守がいまワニに餌やりをしてる』って聞いて、居ても立ってもいられなかったんスよ。子ワニも大きいですね。二歳くらい?」
「そうだ」
「ああ、いいなあ……オレ、ワニが好きなんスよ。動物はみんな好きです。みんな、神様が作り出したありのままの美しい色と形をしている。ひとつも無駄がない」
 ラコステは片側の眉を吊り上げる。
 囚人は、スポーツマックスは、そのゴロツキっぽい見た目に反してそこそこ話の分かるやつだった。彼が初めて話しかけてきたときからしてそうだ。ワニの種類とその生態について、図書室の図鑑では不十分なので詳しく教えてほしいとか。一人の囚人と懇意にするのは――たとえラコステがこの囚人に好意を抱いていなくても――憚れたので数分立ち話をするだけになったが、そのあとも度々コンタクトをとってくる、奇特な囚人だった。
「看守さんもそう思うでしょう?」
「……そうだな。特にワニはすばらしい。恐竜が生きていた遥か昔からほとんどその姿を変えていない。生きた化石だ。知性の面影が残る原始の生命体だ」
 大人のワニたちがのそのそと川面に近づき、静かに入水する。子ワニもそれに続いた。具合の悪いやつはやはり歩くのが遅く、ひとり取り残されていたが、母親ワニだけが彼を待っていて、付き添われるように川を泳いでいった。檻に入れ損ねてしまったな、とラコステはひとりごちる。
「行っちゃいましたね」
「お前のおかげでな」
「ああ、これはどうもすみません……。ところであの、弱ってたやつ。あのワニ、どれくらい持ちますかね?」
「……どれくらい、って?」
「あとどれくらい元気でいられるかって」
 ラコステが咎めるような視線を飛ばすと、スポーツ・マックスは肩をすくめて言う。「弱ってるんでしょう? 気になっちまって」
「……まだ分からない。今週中に捕まえて檻に入れとけば回復するだろうし、大蛇かなんかに突付かれれば今日明日で死ぬ」
「へェェ――ッ! そうですかァ! 今日明日で!」
 男が妙に上機嫌な声を出したので、ラコステはじろりと睨みを利かせた。不愉快だった。
「それがなんだ? 早く用件を済ませろよ。お前と話すのは嫌いじゃあないが、好きでもないんだ。お前のせいで子ワニを捕まえそびれたし」
「……じゃあ、単刀直入に言います。あの子ワニが死んだら、オレに死骸をくれませんか」
「……なぜ?」
「剥製にしたいんです。ワニはすばらしい動物だ。世界でもっとも美しい生き物のひとつだ。そうでしょう? そのワニの姿を残しておきたいんスよ。剥製にして」
「………………」
「所長の許可はいただいてるんです」固く腕を組んで沈黙したラコステに、スポーツ・マックスは畳み掛ける。
「一日三十分だけ資料室を使って剥製を作っていいと許可をいただいた。最近掃除やなんかを熱心にやったんでね、その真面目さを評価してもらえたんスよ。あとはあなたにワニの死骸を譲ってもらうだけなんだ」
「………………」
「勿論、タダでなんて言いません。ほら」
囚人がぐっと近づいてきて、ラコステの手に何かを握らせる。無理やり受け取らされたものを見てみると、それは輪ゴムでまとめられた札束だった。
「足りないってんなら後でもう一束渡しますよ。どうです? 譲っていただけますか?」
 ラコステは静かに深呼吸をして、賄賂をスポーツ・マックスに押し戻した。
「……おかしいと思ってた。お前はいつも調子よく話を合わせてくるが、大事なところで食い違うんだ」
 腰のホルダーから鉄製の警棒を抜いて、カチカチと長く伸ばす。軽く振って強度を確認してから、相手の顔にその先を向けた。スポーツ・マックスが何歩か後ずさりしながら顔をしかめる。
「あの……食い違うって、何がです? オレたちはいつもワニの話で盛り上がってたじゃあないスか。何が違うって言うんだ? 金が足りないってことか?」
「金なんかどうでもいい」
「じゃあ……」
「自分で考えろよ。午後の労働はこれで終わりだ。男子監へ戻れ」
「オレの質問に答えてもらってないぜ。オレの何が悪かったっていうんだ?」
「黙って戻れ、スポーツ・マックス」
 ラコステが警棒を突きつけたまま一歩一歩近づいていくと、やっと取り付く島もないと悟ったのか、囚人はもと来た方向へ歩いていった。


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