夕方。三度目の食事をバケツいっぱいに抱えて湿地帯へ行き、ラコステは例の子ワニが死んでいるのを見つけた。
 背の高い草の陰で静かに横たわっている。鳥や蛇がその亡骸で腹を満たそうとあたりに集まっていたが、ラコステが近寄ると一斉に方々へ捌けていった。
「………………」
 子ワニの体を検分する。外傷はない。
 昼のうちに檻へ入れることさえできていたら、と後悔したが、害獣に突かれた形跡がないのだから、どっちにしろダメだっただろう。内側からやられたのだ。もともと弱い個体だったのかもしれない。
「かわいそうに」
 言ったのはラコステではなかった。警棒に手をかけて、声のした方に顔を向ける。「誰だ」と呼びかけると相手は木の陰からすっと出てきたが、その相貌を見てラコステはますます警戒心をつのらせた。人間には見えなかったのだ。
「お前……なんだ? 囚人か?」
「いいや、違う。私の名前はホワイトスネイク。君に話があって来た」
「おい、待て。近寄るな。そこまでだ。そこでじっとしていろ……」
 引き抜いた警棒を一振りで伸ばし、不審な男に向かって警告する。いや、男なのかどうかすら分からない。声は低いように思うし体つきは男めいているが、それだけでは判断できない。なにせひどく人間離れした風貌なのだ。
 男を睨みつけながら、腰の後ろに手を伸ばす。しかし目当てのものは掴めなかった。携帯しているはずのトランシーバーがない。腰のベルト周りを何箇所も手で触ってみるが、空のホルダーがあるばかりで、中身はどこにも見つからない。
「探し物はこれだろう?」
 ホワイトスネイクが手に持った無線機を掲げる。本体からコードで繋がったハンドマイクがだらりとぶら下がっていた。
 瞬間、身をこわばらせて襲いかかろうとしたラコステに対し、男は両の手のひらを見せて諭すような仕草をしながら言った。「落ち着け」
「心配には及ばない……話が終わったら君に返す。私はただ、君と話がしたいだけなんだ。一対一の、邪魔が入らない環境で……」
「………………」
「私がなぜこんな姿かというのは後で説明しよう。君に贈り物がある。……いや、実は、もう既に君に贈っている。足元を見てみろ」
 ラコステは視線を動かさない。素性の知れない男から目を離す気など毛頭なかった。
「さあ」
「………………」
「私を見張らなくても大丈夫だ。逃げはしないし、君を襲いもしない」
「………………」
「本当に見ない気か?」
「………………」
「君は強情だな。足元が沈んでいるぞ」
 ガクン、と体が傾いた。咄嗟に警棒を地面に突き立ててバランスを取る。べちゃ、と水っぽい音がして、頬に泥が跳ねた。
「足元を見ないとどんどんぬかるみが広がっていくぞ。君は沼に捕らわれる」
 柔らかい地面に、ずぶずぶとブーツが飲み込まれていく感触がある。男の言うとおりだ。泥濘がある。
 それでもしばらくラコステはホワイトスネイクを睨みつけていたが、ふくらはぎの半分ほどまで体が沈んだとき、とうとう足元に視線を落とした。
「そうだ。それでいい。そのまま自分の足元を意識するんだ……地面が固くなり、盛り上がって、元に戻るのをイメージしろ」
 また男を無言で睨むと「早く」と急かされる。足元の泥濘はだんだん水と泥とに分離してきていた。上澄みが泥水で、下は泥。底はない。数秒ごとに一インチ沈んでいる。
 ラコステはおとなしく男の言うとおりにすることにした。そうするしかなかった。でなければ体中が汚れるし、最悪頭まで沈んで溺れ死ぬ。
 泥水が引いて、地面が固くなり、盛り上がって、元に戻る光景を、頭の中で作り出す。
 ぐっと足の裏に圧力を感じた。靴底が押し上げられている。ふらつきながらも踏ん張って堪えると、地面が揺れるような感覚のあと、いつもの目線の高さに戻っていた。見下ろせば足元の泥や水が土に戻っている。地面だ。
「…………今のは?」
「君のスタンドだ。私がプレゼントした」
「……スタンド?」
「能力のことだよ。神からのギフトだと思えばいい」
「真面目に答えろよ。自分が神の遣いや天使だって言うつもりか?」
 そもそもラコステは天使を信じていない。家は代々カトリックだったが形式だけだ。それに敬虔な信徒でも、目の前の男を天使とは認めないだろう。
「そうではないが、しかし他に言いようがない。スタンドはスタンド使い――能力者同士にしか見えないし、感知しようがないから、君がいままで存在を知らなかったのは当然だ。しかし今知った。君はスタンド使いだ。私のスタンド能力でそうなった」
「お前のスタンド能力?」
「“他人にスタンド能力を授ける能力”だ」
 ラコステは、二回ゆっくりと瞬きをして、自分の一日を振り返った。朝、ミューミュー看守に絡まれて嫌な思いをする。ワニに餌をやる。番犬のブラッシングをする。昼、スポーツ・マックスに絡まれて嫌な思いをする。ワニに餌をやる。礼拝堂へ行く。警備がてら犬の散歩をする。今、ホワイトスネイクに絡まれて嫌な思いをする。ワニの餌はまだ。
 そうして思い返して、結論づけた。自分は寝不足でも精神病でも変な薬を打ったわけでもない。今起きていることは現実で、目の前の男が言っていることも、恐らくは真実なのだ。到底信じきることはできないが。
「……僕が、スタンド能力?を、与えられたとして……さっきの小さな沼がその能力によるものだとして……どうしてお前がそんなことをする? 目的は何だ?」
「ちょうどその話をしようとしていた。私は君に仕事を依頼したいんだ。スタンドはその報酬だ」
 ホワイトスネイクはゆっくりと落ち着いた調子で、ラコステに何を望んでいるのかを語った。どこかで聞いた話し方だと思ったが、それを思い出す前に男が気を引く。「私が君に授けた能力は」
「君にぴったりと合っているはずだ。君はワニが好きなんだろう。人といるよりワニといる時間の方が長い……刑務所中が君を“ワニに生まれそこなった男”だと言っている。その通り、君はワニではなく人間だ。いくら献身的に世話をしても、ワニと心を通わせても、君は人間だ」
「だからなんだ」図星をつかれたラコステは吐き捨てるように言った。自分が人間だということは嫌というほど分かっている。
「だから、私は君にその能力を渡したんだ」
 ホワイトスネイクが一歩踏み出した。ラコステは咄嗟に警棒を構えた手を下ろし、男の足元に注目した。そこがぬかるんで、泥になり、二本の足を飲み込んでいくさまを思い描く。
 果たしてその通りになった。ずぶ、と沈み込んで、ホワイトスネイクが歩みを止める。「もう使いこなしているな」
「名前は『スクリレックス』。地面を沼に、沼を地面にする能力だ。固さを自由に操作できる。これで君はどこまでもワニについていけるし、どこへでもワニを連れていけるようになった」
「!…………」
 ラコステは真っ直ぐに男を見据えた。そして自分が作り出した沼を見る。確かにそうだ。この能力があれば、行動の幅がぐっと広がる。人間だからと我慢していたことができるようになる。
 しばらくの沈黙ののちに、ラコステは能力を解いた。ホワイトスネイクが浮上して、地面が元通りになる。
「有意義な時間だったな。トランシーバーを君に返そう。私からの指示は全てこれで伝える」
「……刑務所の職員なのか?」
「詮索は無用だ。ラコステ・ロッコバロッコ、私が与えたその報酬にふさわしい働きを、期待している」
 手渡されたトランシーバーのスイッチを入れて、壊れていないか確認する。変わりないようだ。ベルトのホルダーに仕舞ってから顔を上げると、いつの間にかホワイトスネイクはいなくなっていた。


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