分岐点2
ほんのり聞こえるシャワーに聞き耳を立てながらリンは相澤に残していた夕食を温め直していた。
件の話、返事は後ほどと言ったもののやはりその日は眠れず結局は寝不足によくある高揚感で朝イチの時間に了承の電話を掛けてしまっていた。
決定から5日経った今もまだ相澤に伝えていないリンはずっと心ここに在らずな状態だった。なかなか説明できる時間がなく、かといってたまに食事の席が一緒になっても口を開けず。
リンがここまで引きずる理由は、ただ相澤と離れ難いからというだけだ。自分の成長に必要な道のりではあるが、正直引き止められたい。「先生はきっと反対しない」その確信がリンに寂しさを感じさせてここまできてしまっていた。
しかし流石にこのままというわけにもいかないので苦悩の末にやっと今日伝える決心をしたのだ。「大事な話がある」と仕事から帰ってきた相澤に伝えて退路も塞いである。
相澤は親を亡くして頼る親戚もいない自分を『生徒と同居』という大きなリスクを取ってまでも独りにしないよう家に迎え入れた。そんな相澤だからこそ今回の件についても真剣に考え、中途半端も許さないだろう。やるならしっかりやれ、とクラスメイトに投げかけられたその言葉はもう数えきれないほど聞いてきた。
聞こえてくるドライヤーの音に段々と緊張が高まっていく。
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対面に座る相澤は神妙な面持ちをしながらリンを見据えている。食事も片付けも終わらせてしまった。話を遮るものは何もない。
リンは喉をごくりと鳴らして膝に乗せている資料達を見やすいように分けて机に置いていく。ここ数日で特命医科とその免許について調べ尽くしたものだ。悩んでいる間決してただ無駄な時間を過ごしていた訳ではない。
まずは病院から私宛の訪問があったことから順に、話の漏れがないよう伏せるところは伏せて丁寧に説明をする。
そして勧められた話が今の自分に一番必要であると判断したこと、ヒーロー職と比較したメリットデメリットやそれに伴って重要になる生活基盤の計画をしっかりと提示していく。
相澤は途中で口を挟むことをせず、たまに相槌を打ちながら真剣に話を聞いていた。
「以上か?」
「以上です。」
小さく息を吐きながら髪をかきあげてソファの背にもたれかかる。
「そうか…いや、もっと最悪の事態を…、」
はぁ、と再度深いため息を吐く。恐らく自分の『やられたらやりかえす精神』についてだろうと察しがついた。しかしすでに未来を見据えているリンにとってその悩みはもう終わったこと。といっても今やる事じゃないと判断しただけだ。
「心配を掛けてしまったようで。すみません」
「ほんとに…ビビらせてくれたな」
呆れたような言葉と呆れたような柔らかい表情。
「新しくやりたい事ができるのは悪くない。赤井はまだ若いから尚更挑戦するべきだとも思う。」
「……はい」
「自分のやりたい事をやればいい。それにやり方は違うが人を助ける仕事に変わりない。もっと自分の考えに自信持っていいよ、お前は」
「…はい」
「途中で投げ出しそうなったらいつでも来い、弱音も愚痴も聞くが場合によっては叱るかもな」
口角を上げてからかうような笑顔をつくる精悍な顔の相澤に、心臓を撃ち抜かれたかと錯覚…ではない。完全に撃ち抜かれた。
「学生の時間はあっという間だぞ」
「ろく…5年で終わらせます。すぐに戻ってきます、先生」
特命医科は8年制度。こんな長い期間と分かっていながら『待っていてください』なんて言うことはさすがに出来ない。今までのように学校で顔を合わせながら過ごす時間とは全く違うのだ。
それでも雄英を辞めたらもう先生と生徒ではなくなる。もしかして今がチャンスなのでは、と考える傍らこれから忙しくなる時期に中途半端なことはしたくないしそれは先生も望まないだろうと至極真っ当な考えもあってリンは言葉を続けることが出来なかった。
「随分強気な数字だな…まぁ楽しみにしてるよ。」
クツクツと喉を鳴らしながら困ったように笑う相澤にリンはネガティブな思考が吹っ飛んでひたすら(わらってる〜〜〜)とその笑顔を頭に焼きつける。
リンはこの瞬間がたまらなく好きだ。先生が笑うと胸がぎゅうと締め付けられてとても幸せな気持ちになる。先生との時間を過ごせば過ごすほど私はどこまでも骨抜きにされてしまう。そして心がたいへん賑やかになる。
「まともに寝てないだろ、顔色悪いぞ」
相澤は2人の間にある机から少し身を乗り出しリンの頬に手を当てて目の下を親指で撫でた。視線が混じり合ってリンの数秒息が止まると相澤の表情が熱を帯びた。
「せんせい、あお、煽らないでください」
相澤はどっちが、という言葉を飲み込んでリンのおでこに唇を寄せた。軽いリップ音をさせながら離れるとリンはぽかんと口を開けてこちらを見上げている。その表情に相澤は再び低く喉を鳴らした。
ヒーローとして申し分のないリンを失うのは惜しいが実際はこれで良かったと相澤は思っていた。
この少女はヒーローの在り方に対して強く不満を抱いてしまった。それを消化するのは難しく、例えこのままヒーローになっても活動を続けること自体が苦しくなるだろう。このタイミングで違う選択肢ができたのは彼女にとって幸いなことだったのだ。
そして正直な話、ここまで可愛く素直な好意を寄せられて期待しない男はいないだろう。詰まる所、相澤は新天地で過去の男にはなりたくないと思ってしまった。
「おやすみなさい」
自分に向かってはにかむリンは愛らしくてずっと見ていられる。寝室へ向かう背中を見送って相澤も自分の部屋に戻った。
残っている仕事をやるべくパソコンの前に座るがふわふわとした気持ちでなにも手につかない。しかしとうとう自分がロリコンの域に入ったかと思ったが別に少女や幼い子に対して欲情するわけではないので恐らく、大丈夫…。そう自分に言い聞かせながら相澤は緩む口元を引き締めた。
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