分岐点1
朝だ。まどろみの中でトーストとコーヒーのいい香りがする。リンはコーヒーは飲めないけれど大人を感じさせるあの匂いが好きだった。
頭が重くてズキズキ痛む、瞼も開かない。喪失感が身体の動きを鈍くするが昨日よりはいい。
時計は既に8時を示しており、今日は一日やる事が多いので早く起きなければいけなかった。リンは気怠い身体に鞭を打って布団から抜け出してリビングへ向かった。
「おはようございます」
「お、……おはよう」
腫れているであろう目元を隠しているせいか、返された挨拶は少し言い淀み気味だったがリンは構わず顔を洗いに洗面所へ向かう。
「洗面所借りますね」
「…構わんが下履いてから行ってくれ」
ズズ、とコーヒーを啜った相澤は気まずそうに目を逸らしている。そういうことか。ズボンを身につけていない脚を見て駆け足で部屋に引っ込んだ。
どうやらぶかぶかすぎて脱げていたようだ。自宅ではいつも短い部屋着で全く違和感がなかったので朝から恥をかいてしまった。相澤から借りた服は丈が長く下着は見えていないのが不幸中の幸いだ。
布団の下から探し出したズボンに脚を入れてズリ落ちないよう紐を結ぶ。気を取り直して顔を洗いに鏡へと向かい合ったが覚悟していたよりも酷い顔ではなかった。
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葬儀は午前中で終わり、リンの父親が所属していた事務所からも弔いの言葉を受け取った。一緒に参列した相澤はリンを自宅へと送り届けてから出勤している。
悲惨だったリビングはもう片付け終わって壁は凹んでいたり穴が開いているが、窓が割れていないだけ奇跡だと思う。
「……」
リンは考えあぐねていた。あのヴィランたちを処理すべきか否か。事件直後は冷静に考えることができなかったが一晩眠るとあら不思議、いろんなことに考えが及ぶ。ヴィランを殺せばその容疑の候補にリンが入るのは決定事項。ここはもう社会が築かれているので忍だった頃ように放浪生活を送るのは現実的ではない。それに相澤や雄英にも迷惑は掛けたくなかった。
冷たいお茶で喉を潤していると玄関のインターホンが鳴った。
画面に映っているのはスーツ姿の男女が一人ずつ。どちらも知らない顔。なにかしら父の関係かと予想して通話に出てみると病院からの訪問だった。
『赤井リンさんのお話をさせて頂きたく…』
私?と思いつつもモニター越しでは聞き取りにくいので直接話す為に玄関へ向かいドアを開ける。顔を合わせるとお悔やみの言葉を掛けられリンはどうも、と返して要件を聞いた。優しい表情でゆっくり話す男性は40半ば、女性は30前半といったところか。
「ヒーローとして生きるのは、つらくないですか?」
「……間に合ってます」
「ええと…怪しい者ではなくあなたのお母様にお世話になって、」
諭すような喋り方が胡散臭く感じて病院を名乗った新手の宗教勧誘か、と部屋に戻ろうとドアを締め切る間際の言葉。再びドアを開ける。
嘘だったら…と睨みつけると名刺を渡された。『大学病院附属 総合診療科』と書かれている。あいにく母親の職業を知らないリンはこれが事実なのか確認することはできない。
「…どうぞ」
あまり信用ならないが外で変な話をされるよりはましだと思いつつ室内へ通す。壊れていないイスに座ってもらい、お茶を淹れるのが手間なのでペットボトルを2本適当に飲んでくれと渡してリンも腰を下ろした。
「以前学校内で暴力沙汰を起こしたとか」
「はい。その件は正当防衛に終わりました」
「それと強姦未遂のヴィランをだいぶ手酷く痛めつけたようで…3人の男性器を切れ味の悪い刃物で乱雑に切り取り目の前で燃やしましたね。」
「…さぁ、事実無根では?」
この件に関しては足のつく証拠は残しておらず、なにより姿を変えている。被害届も出していないので警察の情報には含まれていないはずだがよく調べたものだとリンは場違いにも感心していた。
「あなたの行いは普通ではありません。自分の行動が獣のようだと少しでも感じませんか」
言い聞かせるような物言いにめんどくさい人を家にあげてしまったかもと後悔した。獣て…野蛮てこと?自分の性格がそうだなんて感じたこともなかった。まぁ言われてみると現代ではそうなるかもしれないのかな…?とうっすら思う程度だ。
やられたからやり返してるのであって無差別に手を出してるわけじゃない。撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけって言葉を知らないのか、この人は。
「今度は父親の命を奪ったヴィランに手を掛けますか?」
「いや、今のところそういう予定はないですけど…」
処理したあとのデメリットが多すぎて最早やろうとは思っていない。リンの人間性を問いただし、心を突くような姿勢にむしろ相手に何かあるなと踏んだ。
「もしそうだとしたら何かあるんですか?」
弱みを握っていいように使いたいとか?もう人に使われるのは絶対にごめんだとリンは少し警戒する。相澤に世話になっている今、完全に迷惑が掛かるため厄介ごとに巻き込まれるのだけは避けたい。
「お母様と同じ個性を人殺しに使って欲しくないのです。彼女はその力を治癒として使っていました」
「……あそうですか」
へぇ〜、と拍子抜けしてしまった。どんな話をされるかと思ったら話の切り出しが随分と遠回しなお節介だ。リンも医療忍術を会得したいとは思っている。ただコントロールが滅法下手なだけであって、言われなくてもできるならとっくに治癒に使っていた。
しかし母ができたのなら娘の私も不可能じゃないはずだとリンは希望が持てた。
「どうか命を消すのではなく、命を繋ぐ人になってください」
リンの心内などなどつゆ知らず、目の前の男は熱く語っている。
絶対に扱えないと断言できるほど努力はしていない。リンは特訓を始めても「やっぱ苦手だ」と諦めるのが早かった。人には適材適所があるんだと背中を向けていたが、もしや、今ここが自分の先を決める分岐点なのではないかと思い始めていた。
攻撃に特化した力もいいが、万が一のときには治す術がない。詰んでしまう。父がそうだったように。
「まぁやりたい気持ちはあるんですけど、それと現実は相反するというか…」
「彼女も同じく技術面に悩んでいました」
机の上に資料が置かれた。『附属病院 特命医学科』と書かれている。
「それを磨き上げた訓練がここにはあります」
「……なるほど」
「ヒーローにならずとも特別救命医として知識と技術を身につけライセンスを手にすれば、救命現場での個性使用が認められます。あなたの力ならケガ人に何もできず死なせるなんて事、まずありません。」
ヒーローにならない選択肢。
正直職場体験の時から考えていた。相澤先生のサイドキックになる為に入学した高校。しかし先生は事務所を持たないので意味が無くなって、免許を取った後はどうすればいいのか漠然とした未来さえ見えなかったのが事実。
「…1週間考えさせて下さい」
本当は答えがもう出ていた。実行するか否か、行動を起こすのが難しい。
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