薄氷上の少女

 
 それからいくつかの手続きと然るべき手配を済ませ、ひと段落ついたと時計を確かめる頃にはもう日付が変わろうとしていた。

 隣に控える相澤は明日も仕事で時間が押しているはずなのにそんな雰囲気を微塵も出さない。合理主義だが面倒見がいい。誰よりも真面目でリンが出会った中で1番熱い人だと思う。

 手を出したことは最後までやりきるというか、責任の取れないものには手を出さないというか。だからこそヒーローとしての模範解答をきちんと守れる人なのだろうとも感じた。そしてそれを実行できる実力もある。

 しかしリンは未だ相澤に対して心が尖っていた。いや語弊…厳密にいうとヒーローの在り方に対して。
 市民を守る為の行動をなぜこちらが不利になる規則で縛るのだろうか。一線を超えた敵には死を与えるのも結果的に『市民を守る』に繋がるにも関わらず。

 こちらにも正義があるように、あちらにも正義がある。動物の命を尊重する菜食主義者が栄養学を説かれて肉を食べるようになるだろうか。
 人の持つ信念にはきちんと理由があり、それをどれだけキレイな言葉を並べて『更生』と言う判子を押し付けてもはい分かりましたと素直に上書きされる筈がない。片手間の趣味でやってる訳じゃないんだから。

 正義として矛を振るうなら、最後まで振り切らない方がいずれ負けるのだ。

「ありがとうございます。本当に助かりました」
「いやいい。それより頼れる身内はいるのか」

 相澤は缶コーヒー、リンは温かい紅茶を飲みながら会話を続ける。残念なことに父方の祖父母はとうに亡くなっており、母方は存在すら知らない。叔父や叔母がいた話も聞いたことがなかった。

「知る限りではいません。今日はとりあえず片付けをしに家へ帰ります」

 そう伝えると相澤は難しい顔で1拍、2拍と考えてそれなら、と切り出した。

「しばらく俺の家で生活しなさい。校長にはきちんと話をしておく」

 言われた事をすぐに理解できなかった。リンが意見する暇もなく「自宅の状況確認と必要な物を取りに行くぞ」といつの間にか呼んでいたタクシーに乗せられて家に着いてしまった。

 事件直後の騒がしさは鳴りを潜め、家の電気は消えていて照らすのは街灯と月明かりのみ。規制線はすでに回収されており外観はいつもと変わりない。

 鍵を開けると玄関からリビングにかけて土足の跡が続いている。自分のスリッパと来客用のスリッパを出してその跡を追うと悲惨の言葉が当てはまる程の惨状だった。
 花は踏み荒らされ、配色も完璧だった風船は散り散りになり天井からは無惨にもリボンが垂れ下がっている。

「荷物取ってきますね。明日も、あ今日か…朝早いのにすみません」
「午後からだ。気にしなくて良い」

 急がなくていいから、そう言って相澤は玄関の方へ歩いて行った。
 リンは階段を上がって部屋へ向かい、巻物を開いて下着と制服を詰める。学用品は通学の鞄に入れてこれも巻物に詰める。とりあえずこれでいいだろう。足りない物があればまた明日取りにこればいい。

 下に降りると相澤は背中を玄関の壁に預けて立ったまま目を閉じている。仕事で疲れているのに申し訳ない気持ちになった。

「…荷物は?」
「この中に」

 巻物をみせればそうかと頷いて一緒に家を出た。

 鍵を掛けたのを確認して待たせていたタクシーに乗り込み、車に揺られて20分もしない内に着いたのはオートロックの付いているしっかりとしたマンションだった。
 部屋はひとり暮らしでまさかの2LDK。寝室と仕事用で分かれていて寝室を貸してくれるらしい。

 玄関で靴を脱ぐと「この家にスリッパはない」と断りをいれられた。そんなことは全然気にしないのに。

「今日はもう風呂入って寝ろ。寝室はそっち風呂はここ、冷蔵庫のものは好きに飲み食いしていい。着替えてくる」

 簡潔に説明を終わらすと相澤は仕事の部屋へと消えてしまった。慣れない場所で心許ないが行動しやすいようにしてくれたんだろう、とリンは相澤の性格を読んだ。

「あとで1回寝室入るから見られたくないもんは仕舞っておけ」

 ドアから顔だけ出してまた引っ込んでしまった。必要な会話だけで終わらせるところが相澤らしい。今はそれが助かる。

 お風呂の準備をしようと寝室で着替えを出したが下着と制服しかない事に頭を抱えたくなった。
 確かに、ちゃんと入れていないのを覚えている。野宿は慣れているがこういった宿泊は初めてなので寝間着のことなんて頭になかった。持ってきたのは下着、制服、学用品のみ。

(最悪だ…)

 仕方ない、同じ服を着るしかないかとリンは腹を括った。


 ▼


「…おい、その服着替えじゃないだろう」

 少し急ぎ気味でお風呂から出ると髪を結んだ相澤がリビングでパソコンに向かいながらリンを二度見して声を掛けて来た。
 机にはコンビニで買って来たであろう食べ物がずらりと置かれている。

「下着と制服しか持って来てなくて、ぼーっとしてたみたいです」
「…ちょっと待ってなさい」

 そう言うと脱衣所に入って行った相澤は畳まれた服を持ってすぐに出てきた。

「些細なことでも困ったら言う事。無理なら断るからとりあえず言葉にしろ」
「あ、りがとうございます…困ってました…、借ります…」
「ああ。コンビニで悪いが腹へってるなら食べれるだけ食べなさい。俺は風呂に入る。待ってなくてもいいから眠かったら寝ておけ」

 おやすみと言い残して再び脱衣所へと消えて行く相澤を見送りリンは受け取った服に顔をうずめた。
 今は何もかもをマイナスに取ってしまうようで相澤の言葉をさえも自分の判断が間違っていると言われてるように感じた。実際に間違っていても決して変な意味で言ったわけではないとわかっている。それでもダメだ自分が情けなすぎてまた泣けてくる。

 借りたスウェットを着込んでサンドイッチをかじった。美味しいけど美味しくない。どうしても食欲がわかずその一口だけで包み紙に戻した。
 
 人の死には慣れていたけれど、自分の大切な人を失うのは初めてだった。日常に溶け込んだものが無くなると言葉に表すことのできない感情や思考が自分に襲い掛かる。これが心にぽっかり穴が空く、ということなのか。全てにやる気が起きない、考えたくない。

 人はいつ死んでしまうかわからないと改めて思い知らされた。今だってお風呂にいる相澤が突然死なないとは限らないのだから。

「……、…」

 先生が死ぬ。そんなことを想像しただけでどんどん涙が溢れて胸が苦しくなる。相澤が死んだらきっとリンも後を追うだろう。ぐるぐると死に対しての思考がループして涙が止まらない。

 10分も泣き続けた頃、だんだんと落ち着きを取り戻したリンは机に伏せてうとうと舟を漕ぎながら「後を追うならヒーローイレイザーの意志を継いでヴィランを一掃してからの方がいいか」なんて思ったりそういえば相澤のヒーローとしての志はなんだろうと考え始めていた。

「ここで寝るな、風邪ひくぞ」
「……ぅん」

 いつの間に出てきたのか、相澤はリンの後ろにしゃがんで頭を撫でながら声を掛ける。口すら動かしたくないほど強い眠気のせいでタメ口になっているがリンは気にもしなかった。
 瞼も身体も重たくて動きたくない。風邪なんかひいてもいいからもうここで寝るとリンは決めた。
 それを察知した相澤は仕方ないとばかりに抱き上げるとリンは首にぎゅ、としがみつく。鼻を首筋に押しつけて体温と匂いを堪能した。髪はまだ少し濡れていて柔らかい。

「せんせぇ、」
「…ん?」
「せんせいは、しなないで」
「死なないよ」

 俺は死なない。たとえこれが気休めの言葉でも今のリンには充分だ。安定感と歩く揺れが気持ちよくてずっと抱いていてほしいと夢うつつに思っていた。

 


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