有名な哲学者は言った。
欲望は満たされないことが自然であり、多くの者はそれを満たすためのみで生きるのだと。

「玄野。あんたな、部活動を始めようとするのはいい。俺を勝手に顧問に推薦するのも、まあ……この際構わないよ。ただな」

山崎は目の前に一枚の用紙を差し出してきた。

その紙には“抗議文”の文字がでかでかと掲載されている。

「いくら規定の人数に届かないからと言って、無断で他の生徒の名前を部員リストにいれるのはやめなさい」

てへっ、と私が思うめいいっぱいの許してねアピールを平気で無下にして、山崎はやっぱりデコピンをしてきた。

うん、こうなるとは思ってたよ……。
でもでも、新しい部活を作るにあたって、最低限の部員数が集まらなかったのだから仕方がない。

「しかも、気のせいか部員の中に“由利宮慶子”の名前があるんだが?」
「気のせい気のせい」
「……あんたな」

抗議が来たらしい生徒とは違い、由利宮さんは立候補者だ。

新しく部活を作ることを決め、さっそく部員集めに奔走しようとしたところで声を掛けてきてくれた。
「人が集まらないのでしょう?吹奏楽部と兼部になってしまうけど、私で良かったら参加させてくださいな」と。
由利宮さんのファンであった私はすぐに了承した。

「俺と彼女の間に起こったことを、あんたは知っているはずだろ?」
「まあね」
「あんたな……はぁ、もう、何を言っても無駄だろうけど」
「山崎ってば、これみよがしに溜息つかないでよ。幸せ逃げちゃうよ〜?」
「あんたが言うな」

それに、と山崎は続けた。

「抗議文がきた生徒だけど、これまた面倒な相手を見繕ってきたもんだよ。一年の笈田春生―――彼がどういう人物なのか、知ってるのか?」
「もちろん」

山崎が挙げた笈田春生という人物は、色々と噂の絶えない同級生だ。
残念ながら直接話したことはないけど、噂で彼は黒猫のような扱いを受けていた。

不吉なことの象徴。
忌避するべき存在だと、常に周囲から迫害され。

人間離れした美しさを持つ、孤独な少年。

………って、誰かが言っていた。

最近は不登校気味らしく、私は彼の姿を見たことがないけど。

「面白そうだよねえ、笈田くん。私、その手のタイプの人って結構好きなの。突っつき回したくなる」
「ああ、そう」
「嫉妬してくれないの?山崎」
「なんで俺が」

呆れたように肩を竦ませる山崎は、まったくもって意に介していないよう。
思わず頬を膨らませたくなった。

「まあ、でも安心してね。今のところ山崎が一番だから」
「今のところ、な」

そう。今のところ、ね。



昼放課、山崎から出されていた補習用の課題を真面目に取り組んでいると、目の前に見覚えのない男子生徒がやって来た。

蒼い瞳に色素の薄い髪。
異国の血が入ったやたらな美人だけど、スカートを履いていない。
男でこんなに綺麗だなんて、嫉妬したくなっちゃうね。
そもそもこんな人、この学校にいたっけな?

首を傾げる私に、男子生徒が言った。

「あなたが玄野瑞穂さんですか」

あ。
そうか、この人噂の笈田くんだ。

直接会ったことがなかったから、誰だか分かんなかった。

「そうだよー。私に会いにわざわざ二年の教室に来てくれたの?初めまして、笈田く……」

何はともあれ挨拶だ、と手を差し出そうとした時。

ザッ、と。
何かが私の手の甲を掠めた。

遅れてやってくる痛みに、視界が歪む。

え……?
一瞬、自分の身に何が起こったのか、理解が遅れてしまう。

「気安く僕の名前を呼ばないでください。不愉快です」

生温い液体が皮膚を伝う。
見れば、手の甲が5センチほど切れていた。
傷は深くない。
でも、反射的に避けていなければ、確実にもっと抉られていた。

目の前の彼は、まるで虫ケラを見るかのような、蔑んだ目をしていて。

これは、何?

キャーッ、とどこからか悲鳴が上がる。
近くにいたクラスメイトたちが私と彼から距離を取り始めた。

おかげで今の状況を、的確に把握することができた。

―――彼の手には、いつから持っていたのか“カッター”が握られていたから。

「抗議文を送りましたよね?勝手に僕の名前を使うなと、きちんと忠告したはずです。けれどあなたは取り合わなかった」
「それで、カッターを持って直接抗議ってわけ?随分とエキセントリックだね、笈田くん」
「……名前を呼ぶなと言ったはずですが。僕は他人に自分の領域を侵されるのが、心底嫌いなんです」
「じゃあ、春生くんと呼ぶことにしよう」
「そんなに死にたいんですか?あなた」

カチカチとカッターの刃を伸ばし、躊躇いもなく私に向けてくる春生くん。

ああ……噂通りの人物だ。

天童と呼ばれ、一を聞いて十を知る秀才。
しかし持て囃される才能とは裏腹に、彼は少し歪んだ倫理観の持ち主だった。
例えばこんな風に誰かを傷つけても、顔色一つ変えない―――ね。

春生くんは過去にも同様の事件を起こしているらしい。
彼自身に責任がいくようなことはなかったが、以来周囲の春生くんを見る目は変わったとか。

“黒猫は避けて通れ”
昔からよく言う言葉だよね、まさしくその通りだと思う。
でも私は敢えてその尾を踏んでしまった。

傷口に意識を向けないようにしながら、真っ直ぐに彼を見る。

「……どうしてそんな瞳で僕を見るんです。逃げようとは思いませんか」
「そう言ってくれるってことは、流石に命まで奪う気はないってことだよね。安心した。ところで春生くん、きみはハーフなの?」
「はい?」

なんとも場違いな台詞だと、我ながら思う。
比例して、目前の綺麗なかんばせが歪んだ。

「意味が分かりません。この状況で、藪から棒に何ですか。そして僕は、不愉快に思う人間の質問にわざわざ答えたくはありません」

予想通りの返答に、笑いが込み上げてきそうになった。
まったく、なんて人物なんだ彼は!
刃を向け、冷たく蔑み、取り付く島もない。
なんてぶっ飛んでて、なんて面白い!
やっぱり、部員名簿に勝手に彼の名を載せておいたのは間違いじゃなかった。

遠くで教師の怒鳴り声が聞こる。
この異常事態に、誰かが呼んだらしい。
折角いいところだったのに……。

「ねえ春生くん」
「まず、名前で呼ぶのをやめてもらえますか」
「やだよ。ね、私と一緒に青春する気はない?そしたら、私を切りつけたことは不問にしてあげる。傷害事件を起こして鑑別所行きなんて嫌でしょ?」
「その点については、何の心配もありません」
「えっ、なんで?」
「不愉快に思う人間を排斥できるのなら、その程度のことは些事というものでしょう?」
「―――」

にっこりと微笑む彼はなんとも浮世離れしていて。
背筋がゾッとするような美しさを孕んでいた。

なんて。
なんて。

「笈田!何をやってるんだ!!」
「今すぐ離れなさい!」

現れた教師陣によって彼は呆気なく連行されてしまったけど、私はといえば胸の高鳴りがやまない。

笈田春生。
滅多に学校に現れない、不登校な天才。

その姿を見ることができただけでも、大きな収穫だ。

彼はなんて、面白い人なのだろう。


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