Humpty Dumpty:





「土屋先生って、美味しいものはつまみ食いしちゃうタイプなんですね」

その女子生徒と初めて会話を交わした時、そいつは満面の笑みでそう言った。

「あ?」

人気のない通路で。
道化師のように笑うそいつは、やけに印象的だった。







煙草が吸いてぇな、と不意に思った。
なんてことはない、正直な体の欲求。

テスト問題を制作するため開いていたパソコンの電源を落とし、俺は校内の一角に設けられている喫煙所へと向かった。

学校っつーのは面倒だ。
適当な場所で煙草を吹かしていると、すぐにあちらこちらから苦情が殺到する。
まぁ、校内だけでなく最近の世の中もそうなんだが。

禁煙だの何だのと、妙なブーム巻き起こしやがって……こちとら馬鹿高い税金払って買ってんだぞ。
誰かに文句を言われる筋合いはない。

その時、ふと。

『私、煙草の煙ってきらーい』

鼻をつまみながら苦い表情をして、煙たがる“あいつ”の姿が脳裏に浮かんだ。

「……」

そういえば、あいつも嫌いだったな。
煙草。

俺が吸っていると、必ずと言っていいほど近づきたがらない。

「禁煙、ねぇ……」

重度の中毒者である俺でも出来るのか、些か疑問だな。


一服吹かしに行く計画を取りやめ、俺は喫煙所の近くにある自販機に向かった。

「あれ、珍しい。寄っていかないんですか」

偶然通りかかった喫煙仲間の同僚には明日雪でも降るんじゃないですか?とからかわれ、気分じゃねぇだけだと告げると、また笑われる。

「冗談も程々にしてくださいね」

同僚にそう言われた後、なんとなく解せない気持ちになりながら歩いていると、今度は部活動の休憩中であったらしい女子生徒幾人かが寄ってきた。

「土屋先生!こんな時間に会えるなんて、ラッキー」
「どこに行くんですか?ちょっとだけ、私たちも着いていっていいですか?」
「……勝手にしろ」

面倒だが教師という立場を踏まえ許可を出すと、女子生徒たちは黄色い歓声を上げた。

こういうやつらを見てると思う。
なんで俺、教師なんて馬鹿みたいな職業をやってるのだろうかと。

溜息を吐きたくなる衝動を抑え、目的の場所に着く。
コーヒーでいいか。

そうバタンを押そうとした時―――

「へへ。あざーす!」

と、耳に馴染みのある、やけに明るい声が鼓膜を揺らした。

横を見ると、少し離れた場所に設置された別の自販機の前に大学時代からの後輩である山崎と“あいつ”がいた。
どうやら、強請って山崎に飲み物を買ってもらったらしい。

「まぁ、いいけど」

仕方ないなと肩を竦めんばかりの山崎は、けれどどこか優しい雰囲気を滲ませている。
“あいつ”も嬉しそうに山崎に甘えていた。

―――ドキ、と。

心臓が軋んだような、妙な感覚を覚えた。

「土屋先生ってば、イチゴ牛乳好きなの?いがーい!可愛いっ!」

周りにいた女子生徒の言葉で我に返る。

気づけば、俺はコーヒーではなくその隣にあった別の商品のボタンを押していた。

……何を、やってるんだ。
俺は。

「やるよ」
「え?」
「その飲みモン」
「い、いいんですか!?」

イチゴ牛乳なんてクソ甘ったるいもの、飲めるわけがない。
俺はちょうど隣にいた女子生徒に押し付けた。

「え、ずるいミカ!先生、あたしも!」
「だったら私にも――って、先生?何見てるの?」

さっさと当初の目的である缶コーヒーを買って、そこから立ち去ればいいのに、俺は何故か足が鉛になったかのように動くことができなかった。
視線はあいつらに釘付けだ。

チラチラとこちらを振り向いては山崎の様子を伺う“あいつ”と、一切立ち止まることなく去りゆく山崎の背中。

何故だろう。
無性に、苛立たしい。

違うだろ。
そうじゃねぇだろ。
“お前”が着いていい背中は、その男じゃねぇよ。

一週間前まで、山崎のポジションにいたのは紛れもない俺だった。

嫌というほど“あいつ”に付き纏われ、辟易しかけてもどこか甘受していた頃。
だが、山崎と補習なんてもんをやるようになってから、“あいつ”は俺の前に姿を現さなくなった。

初めは姦しいやつがいなくなって清々したと思ってた。
なのに次第に、一人でいるときの静寂に違和感を覚えるようになった。

何かが足りない。

―――玄野。
お前にとって俺は、何だった?

暇つぶしでも何でもいい。
俺の傍に戻ってこい。

なぁ。

「玄野。俺がてめぇを抱いてやると言ったら?」

お前は、楽しいことが好きなんだろう。
日常に飽くことのないように、とびっきりのスリルを味わせてやるから。

だから。

「俺のことは一臣でいい。瑞穂」

だから、どうか俺の名前を呼んで。







「なんだ、お前」

そいつを一介の女子生徒という言葉で片付けてしまうにはあまりに違和感があり、俺は思い切り眉を顰めた。

直接話したことは初めてだったが、どこかで見た顔ではあるので、おそらく俺が受け持つクラスの中にいた生徒だろう。

「どーも、こんにちは。初めまして、土屋先生。私、さっき凄まじいスクープをとってしまった者です」
「はあ?」
「いやぁ、土屋先生も隅に置けませんなぁ。あれだけ粒ぞろいだと、確かにつまみ食いしたくなる気持ちは分かりますけどね。流石に教師っていう立場上は、まずいですよねー」
「―――」

そこでようやく俺は悟った。
彼女の言う「スクープ」が何なのか。

「……何が目的だ?」
「うーん。目的という目的は特にないんですけど、強いていうなら――このことをバラされたくなければ、私の暇つぶしの相手になってください☆」

ふざけてんのか?

俺は何を考えているのか分からない笑顔の女子生徒を、たった今出てきたばかりの資料室に問答無用で連れ込み、直ぐ様押し倒した。

面倒くせぇ、が。
ここでこの女を足蹴にすると、後々厄介なことになりそうだしな。

とりあえず、黙らせておかねぇと。

「もしもーし、土屋先生。婦女暴行で訴えますよ」
「何を言ってんだか。お前だって、元々そのつもりだっんだろ?」

女子生徒の乱れた髪をかき上げ、その面を確認する。

二つの双眸が臆すことなくこちらを見ていた。

名前……は、何だったか。
喉まで出かかっているのに、なかなか思い出せない。

「土屋先生、私、言いましたよね?」

真っ直ぐに俺を射抜く瞳。
がっちりと組み敷かれているというのに、随分と気の強そうな女だ。

玄野……。
ああ、そうだ。
玄野瑞穂という名前だった。

二年の、問題児。

「暇つぶしの相手になってくれ、って。こんな遊びじゃ、暇つぶしのひの字にもなりませんよ」
「……なら、てめぇは何を望むんだ」
「んー、普遍的な日常からの、脱却?」

何だそれ。
馬鹿馬鹿しいにも程がある、そう俺は一笑にふした。

「この世に普遍的なモンなんざ何一つねぇよ。代わり映えのない日々だと勝手に決めつけちまう自分の矮小さこそ自覚しろってんだ」
「流動的な時間の流れの中で、僅かな変化なんて私にとったら変化じゃないんですよ。もっと爆発的な、それこそ天地がひっくり返ってしまうような、そんな革命を期待してるんです」
「阿呆か、てめぇ」

本当に馬鹿馬鹿しくなってきた。

呆れた俺が玄野の上から退くと、玄野は満足したように笑い、なんとその場に胡座を掻き出した。

「……おい」

居座る気満々じゃねぇか、こいつ。

「ね、土屋先生!しばらくよろしくお願いしますね」
「ざけんな。出てけ、今すぐ出てけ」
「えー。あのことみんなにバラしちゃっていいんですか?」
「証拠がねぇお前の発言なんて、誰もマトモに取り扱ったりしねぇよ」
「じゃあ、証拠があるとしたら?」

嘲笑うようにこちらを手のひらで転がす様は、まさしく道化。
不覚にも動揺してしまった俺を、玄野は見逃さなかった。

「余裕ぶってても、やっぱり職を失うのは怖いんですね。それとも、教師という職業に固執でもしてるんですか?」
「……」
「あれ?ってことは、私ってば今、土屋先生の命運をこの手に握ってるってこと?やー、大役ですなぁ、これ!」

―――死ねばいいのに、このクソ女。

一切の空気を読まない発言ばかりする玄野に苛立ち、無性にこいつの顔面を殴りたくなった。

そうだ。
俺が初めて玄野に抱いた感情は、他でもない。

殺意、だった。





殺したいほどお前を愛してる。
なんて、陳腐な台詞。




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