「悪い、本当に体調不良だったか?」
「いえ……」

ダイニングのソファに座る彼は、きっちり姿勢を正し、真っ直ぐな視線をこちらに向けてくる。

―――森本先輩。
まさか、彼が私の家を訪ねてくるなんて夢にも思わなかった。

「あの、どうかされたんですか。わざわざ私の家にまで……」

末次先輩だったらまだ分かる。けれど、森本先輩という人選は謎だ。

私は先輩にお茶を出し、向かい側に腰を下ろした。
森本先輩と二人きりになるのは初めてで、正直何を話したらいいのか分からない。

「いや。当初は牧瀬もいたんだけどな。というより、ここに来たのも牧瀬が言い出したことなんだが……あいつ『なんで俺がここまでしなきゃいけないの』って一度目のインターホン鳴らした直後に帰っちまったんだよ。意味が分からないだろう?」
「……そうなんですか」

だから最初のインターホンが鳴ったとき、画面に誰も映っていなかったのか。

それにしても、森本先輩も意外だけども、由貴先輩も意外だ。一体何の用があったのだろう。

「牧瀬は素直じゃないから俺にも教えてくれなかったけど、おそらくいちか嬢のことを心配して家を訪ねたんじゃないか?結局、顔も合わせずに帰っていったが」

私の家の場所を知っているのも不思議に思ったが、おそらく末次先輩に聞いたのだろう。
今はそれよりも……。

「心配?」
「昨日、末次が無理を言っていちか嬢を連れ回しただろう。そのことについてだと思う」
「無理なんて、そんな……」

むしろ感謝してるのに。

“今だけはさ、忘れちゃえ。学校のことも家のことも、ぜんぶ忘れて僕と楽しもーよ。ね?”

昨日、末次先輩はそう言ってくれた。間違いなく、私のためを思っての行動だった。
義母には平手打ちをお見舞いされ、今日もこうして仮病を使って休まなければいけなくなったわけだが、私は昨日の行動に後悔していない。反対に、末次先輩にそうまで気を遣わせてしまったことに反省している。

……ああ。そういえば。
私はまだ、末次先輩にお礼を言ってないじゃないか。

「頬に傷まで作って?……末次には牧瀬からお灸が据えらるだろうな」
「こ、これは末次先輩のせいじゃ」
「庇う必要はないぞ。末次に原因があるのは明白だ。いちか嬢の過去話を聞いた後であんな行動に出るなんて、軽率なんだ、あいつは」
「……末次先輩は、優しいから……」

だから放っておけなかった。
元友達に陰口を叩かれ、今にも泣き出しそうだった私を。

ボソリとつぶやいた言葉に、森本先輩はわずかに顔を顰めた。

「優しい、か」

他にも何か言いたげに口を開きかけるが、結局先輩はそれ以上その話題について触れることはなく。

「悪かった」と、森本先輩は頭を下げた。私は慌てて言葉を紡ぐ。

「謝ることなんて、ない、です」
「だが痛かっただろう」
「……」
「一日経っても薄っすらと痕が残っている。余程の力でなければ、こうはならない」

誰の手によって作られた痕なのか、きっと先輩は分かっているのだろう。
森本先輩は私の頬に手を伸ばし、けれど寸前で止める。まるで、見えない何かに阻まれるように。

「婦女子の肌に触れるのはマズいな」

そう言って、伸ばしかけた手を引っ込めた。

……末次先輩とは正反対だな。
とても紳士的だ。観念が成熟しているというか、なんというか。森本先輩の態度は、末次先輩に見習ってほしいほどとても大人っぽい。

「養母は出掛けているのか?」
「え、あ、はい」
「……いつ帰ってくる?」
「おそらく、朝方かなぁと……」
「朝?」

言ってから後悔した。
子供を残して朝帰りなんて、どうしたって邪推されかねない。いや、まあその通りなのだけど。家庭内事情をほとんど話したとはいえ、こんなことまで軽々しく言うものではなかった。

「……なるほどな」

森本先輩は妙に納得した顔で頷く。
一体何に納得したのだろう。

「いちか嬢。良かったら、俺と――」

その瞬間。
ピンポーン、とまたインターホンが鳴った。

私は慌てて立ち上がる。義母が帰ってきたのだとしたら、非常にマズい状況だからだ。
勝手に家に森本先輩を上げてしまっただけでなく、今は私と先輩と二人きり。昨日の末次先輩のとき然り、義母がいい顔をするはずがない。

どうしようか焦りつつ、打開策も思いつかないままインターホンの画面を見ると、そこに映っていたのは義母の姿ではなかった。

「え。す、末次先輩……?」

私服姿の末次先輩がカメラに向かって手を振ってる。私はとりあえず、義母が帰ってきたわけではないことに安堵した。
それにしても、今日はやたらと来客の多い日だ。

「なんだ、末次まで来たのか。……いや、牧瀬が呼んだな、おそらく」
「由貴先輩が?」

疑問に思いつつ、私は玄関に向かった。




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