図書室と星座と
〇×●
七月。
終業式の一日前。
空はほんのり赤く染まり始めている。放課後は、図書委員が五時まで図書室を解放している。
私達の教室と図書室は、それぞれが別の棟にある。夏も盛んになり始めた所為か、渡り廊下を過ぎる風が木々の青臭い匂いを運んでくる。
でもこの独特の匂い、私は好き。
肩より少し長い、私の髪。それが日に照らされて黒がほんのり茶色に染まる。
膝のすぐ上ではたはたと風を受けるスカートの裾を気にも留めず、私はそこでうんと腕を伸ばすと、背伸びをした。
「よし!」
気合いを込め直して再び歩きだす。私は階段を登りきり、図書室の扉の前に立つ。
んー、ここの図書室の引き戸って滑らかなんだよね。中学校は結構ボロだったから、毎回引き戸は悲鳴をあげていた。
カウンターの奥で読書中の図書委員が、ちらりとこちらに一瞥をくれて、また読書に集中する。
今日は知り合いの先輩じゃないみたい。
んん、残念?
部屋は音など存在しないかのように、しんと静まりかえっている。まあ、図書室だから当たり前なのかな。
人影は見当たらない。
雑誌でも読もう。
そうしていつもの定位置――カウンターから最も離れており、部屋の隅に隠れるように鎮座している長机と椅子――に陣取る私。その一番手前で窓を背にした場所が私。で、斜向かいは神無くんの席。けれど今は誰も座っていない。
まだ来てないのかな。それとも今日は来ないのかも。
神無くんは一組で、私は五組だからホームルームとかの関係で終礼時間が異なる。だからこんな風に神無くんがいない時は、写真集や雑誌を読み漁るに限る。
実を言えば海外作品や純文学などの小説を私は読まない。……もっと正直に表現するなら、読めないと言うほうが正しい。
だってあの小さな活字を眺めていると、まるで耳元で誰かが子守唄を唄っているかのように眠くなっちゃう。
窓を隔てた外のどこかで、一定の規則に従って蝉達が鳴いている。
どれくらい経ったのだろう、心地よい西日を遮るようにして私の前に影が差した。振り向くと彼がいた。
「何眺めてるの」
「神無くん。眺めてるんじゃないの、読んでるの」
「さっきからずっとそのページだけど? しかもそれほとんど写真でしょ」
……ぐ。
悔しいけど否定できない。私は何とか粘ろうと普段あまり使わない脳を働かせた。
ひそひそと小声で反発する。
「味わって見てるんだよ! ていうかそういう神無くんこそ、いつから見てたの?」
「最初から。俺に気付かなかったのはみちるの方」
「ええ? だってさっき確認した時は神無くん――」
いなかったのに。
そう言いかけて、私は慌てて口をつぐむ。だけど神無くんは斜向かいの席に座ると、何か資料を鞄から取り出し、そしてどことなく意地の悪い笑みを浮かべた。
無意識の内に見ていたのだろう、神無くんと思い切り目が合ってしまい、私の心臓は勝手に走りだす。
「俺が、何?」
「あ、えっと……」
「もしかして捜してくれてたの」
今すぐこの雑誌で顔を覆ってしまいたい。けれどそんなあからさまな態度は不審すぎる。
私は雑誌を宙に持ち上げた両腕を震わせながら、顔面だけを机に突っ伏した。神無くんはおもむろに雑誌を私の手から取り上げる。
「変なことしなくていいから。もしかしなくても図星? へぇ、待っててくれたんだ」
「…………」
言葉が出ない。口は開閉するだけ。でも、このままじゃよく分からないけど悔しい!
確かにいつもの癖で神無くんを目で捜してしまったのは事実だ。それを今更茶化されたくらいで、私は何をおろおろしているんだろう。
何故こんなに混乱しているのか。考える内に頭の中がこんがらがってしまい、私は開き直る。
――ええい、とにかく、ここは何か言い返すべきだ!
「か、神無くんこそ、いつもいつも意地悪ばっかり! もう本当に知らないっ!」
言ってから私は内心がっくりする。もっとましなことは言えなかったのだろうか。
神無くんの返事はない。私から奪った雑誌を無言で見つめているだけだ。眼鏡の奥に、西日に照らされて尚黒い瞳が緩やかに細められている。
いい加減ふてくされてしまおうかと思った時、神無くんが雑誌から目を離さずに薄い唇を開いた。
「星座、興味あるの? みちるは」
「え、うん。この間先輩が話してくれてね。それで、ここら辺はあんまり都会じゃないでしょ? もう夏だし、公園で星を見るのもいいかと思ったんだ」
「一人で?」
「誰もいなかったら、先輩が一緒に見てくれるって」
先輩、というのは言わずもがな件の図書委員の先輩だ。
神無くんは溜め息を吐きたそうな顔になる。
「俺も、いつか聞こうと考えてたけどさ」
「うん?」
「好きなの?」
『すき』という単語に過敏に反応してか、どくりと胸が軋んだ。何だろう、この違和感は。
私はさりげなく神無くんから目を逸らす。時計の針は四時を過ぎていた。
「星は、好きだよ」
「俺は先輩のこと聞いてるんだけど?」
「…………」
今度こそ私は絶句した。どうしてこんなことを聞くのだろう。
先輩は、好き。
けれどそれは人間的に好きなだけであって、恋だとか愛がどうとか、ではないんだと思う。
後から思い返せば不思議なことで、今の私は先輩についての問いに答えることができなかった。
「俺はいるけどね、好きな子」
神無くんはどこか苛ついた口調で、ぶっきらぼうにそう言い放った。
俯き気味だった顔は反射的に戻された。再び視線が結び付けられる。
「だ、誰?」
「教えない」
「そう、だよね……ごめん」
途端に沈黙が降り積もる。私は虫が良すぎる自分にほとほと呆れた。
そういった自己嫌悪でぐるぐると目を回していた私の前で、いつの間にか荷物をまとめた神無くんが席を立った。
時刻は四時三十分を指している。まだ図書室は開いているのに。
「……俺もどうかしてた。少し頭冷やす」
神無くんは片手で顔面を覆う。呆然としている私を、その高い背で見下ろした後、神無くんは図書室から出ていった。
――帰っちゃった。
ぽっかりと大切なものが抜け落ちたみたいに、私はしばらくの間動けずにいた。
神無くんが机の上に置いていった星座の雑誌が、寂しく夕陽に照らされ、影を伸ばしていた。
図書委員の生徒に声をかけられ、閉館だと言われるまで時間を忘れていた私は、急いで帰る支度をし、図書室を後にした。
階段を一息に駆け降りる。
どうして今まで気付かなかったんだろう。知らないふりができたんだろう。
どうして。
この気持ちは。
ああでも、やっと解った。
額に薄らと浮かんだ汗。けれど私はそれを拭うこともせず、息を乱して下駄箱に走り込む。
まだ追いつくかな。追いつけない確率の方が高いかもしれない。今頃きっと、神無くんはいつもの別れ道辺りを歩いているのだろう。
急き立てるかのように蝉がわしわしと鳴いている。
間に合わなくてもいい。 この心臓と一緒に、この拍動を忘れたくない。
酸素を求める体を無視して、校門を飛び出そうとした私は、しかし突如死角から伸びてきた何かに捕らえられた。
手首から先が抜けてしまいそうだった。勢い余って投げ出されそうになった上半身につられて、変な声が漏れる。
「ぎえっ」
「何やってんの。というか何その声」
神無くんだった。
私は驚愕するあまりくらくらと覚束ない意識を何とか整える。
「な、何って、何って……! だって神無くん帰ったんじゃ」
「頭冷やすとは言ったけど?」
「さっぱり覚えてない!」
「ちゃんと聞いとけ」
待ってて、くれたんだ。神無くんは。胸の奥底がほっこりと温まっていく。
神無くんは歩きだす。繋がっていた手はとっくに離れていた。
私は神無くんが触れていた手首を、もう一方の手のひらでぎゅっと包み込んだ。
「私……私もね、」
熱い風が髪を撫でる。
神無くんの白いシャツがまぶしくて、私は目を細めた。
そして。
「好きなひとが、いるんだよ」
……(fin)