借り物の話



カーテンの隙間から差し込む日はもう既にかなり強く、ぼんやりとしていた頭は一気に覚醒した。
慌てて立ち上がろうとしてソファから右足を踏み外し、前のめりでテーブルに手をつく。
眼鏡を弾き飛ばし、がちゃがちゃと鍵の束が落ちる音がして、絡みついた毛布を蹴り飛ばしてから置いてあるはずの時計を探した。

「ねぼう!」

見えない、としばらくぺたぺたテーブルを探して、はたと気づく。
ここは私の部屋ではない。……謹慎中で仕事も無い。
はあと重いため息を吐いてからソファに体を預けて、もう一度毛布をたぐり寄せる。慌てて起きる必要もないのだ、と残っていた眠気に身を任せた。
二度寝しよう。無意識の呟きは部屋に解けて消え、なかった。

「何やってんだよ」
「あ。……おはようございます、おやすみなさい」
「おい」

ここは人の部屋だ。



‐‐‐‐‐




「お兄さん、あんたこんなところで何やってるんだ?」

よく手伝っている弁当屋は配達もしていた。その関係で病院や駅や特高なんかにも出入りしている。
彼は特高で良く見る顔だった。緑頭で背が高く、暑くても着込んでいる赤眼鏡。いつも穏やかに微笑んでお駄賃をくれる彼は、目尻を釣り上げてから低い声で誰だお前と搾り出した。
制服だから仕事中なのかもしれない、けれど、と怯みながらも続ける。邪魔だとしても伝えておかないと危険だから。
その先は駄目だと。

「お兄さん、待って、そっちは危ないって!」
「どうして」
「匣屋があるんだ、近づいたら駄目だ。この間も特高の人が死んでたし」
「ああ。知ってるよ」

この荒川城砦には近づかない方がいい区画や店が多かった。非合法の溜まり場、明確な出自の分からない人間たちの坩堝。自分たちだってその一角だ。
知っているのなら、と続けた言葉に返って来たのは悪辣な態度だった。

「じゃあ」
「それはそうだろう。あの場所でそれを殺したのは私だ」
「え」
「少年、君も殺されたいか?」
「えっ、ちょ、お兄さん」

クッ、と嫌な笑いを浮かべた彼は、とんでもない言葉を吐く。荷物を掴んでいた手に思わず力が入り、がちゃりと中身が揺れた。
今日は商店街の老舗からデパートへ、部品を持っていくように頼まれている。少し距離がある分色をつけてあげるよ、と人のよさそうな店主にお願いされたのだ。こちらに来てからは色々な所の配達を手伝っては日銭を稼いでいた。
最初は仕事を斡旋してもらって、そこから繋がった縁であちらこちらへと出向いている。こういう笑い方をする人間には近づいたらいけない、というのはその中で学んだことの一つだった。
ここでは東京より悪意がまっすぐ向かってくる。城砦では特に。

「君こそこんな奥で何をしている。東京人か」
「違う、おれは配達してるんだ、近道なんだよ。とにかくそっちは危ないから!」
「親切にどうも」

薮蛇を突く前に逃げよう。
目的地の方へ走り出しても追って来る気配は無く、彼はそのまま匣屋方面へと消えていった。
……どうしたというのだろう。



‐‐‐‐‐



結局不貞寝に近い二度寝をした後、起きたのは昼過ぎだった。寝ぼけ眼で部屋を覗くと家主は寝ている。
入るなとは言われたが見るなとは言われていない。不躾に眺め回しても気づかずに寝ている単眼の寝顔は珍しかった。近くでまじまじと見ようとは思わないが、一瞥して布団を蹴飛ばしているのは確認できる。そろそろと近づいてからそれだけなおしてやって素早く引き上げた。今のは不可抗力です。聞かれてもいない言い訳をしてから頭をかく。
何をしているんだろう。

わざわざ起こすことも無いかと、部屋を漁って見つけたメモ用紙に、一度家の様子を見に行ってから必要なものを少し買ってきますとだけ記してから机の上に置いた。
へくし、とくしゃみを一つしてから腕を擦る。少し肌寒い。
濡れたまま寝たからか少し風邪を引いたような気がする。

これも仕方が無いのだと言い訳して上着を拝借し、帰ってから謝りますからと部屋を後にした。鍵は持っているので勝手に出ても支障は無いのである。もってきた上着は少し煙草の匂いが鼻につくが、あの部屋には大量の吸殻があったからそのせいだろうと思う。
しばらくすれば慣れる。自前のヘルメットを被りキーを回して、残りのガソリンを確認する。まだ半分以上残っているからあちこち回っても平気だろう。
最初の目的地は自宅だ。



ほんの一部だけ残った自宅への立ち入りは許可されなかった。
現場検証と昨日の火種が残っているかもしれないのと、どうやら出火原因が自分の部屋からの、煙草らしいということ。怪我人は出なかったそうだ。
同じように見に来ていたらしい隣人がこの人は煙草吸いませんよと庇ってはくれたのだが、借りてきた上着からきつい煙草の匂いがすると指されてはもう何も返せなかった。
迂闊、その一言に尽きる。

住民の大半は入れ替わりの激しい学生達で、自分のように長く居るのは珍しい。そしてそれぞれ知り合いの家なり実家なりに戻っていると聞いて少し安心した。気を落とさないでくださいねと隣人に励まされ、力なく返事をしてから次の目的地へ足を向ける。次は日用品を買いに行かないと。



とりあえず歯ブラシと下着とタオルと、他にも細々と買い物を済ませて荷物を抱えながらデパートを出た。かさばる服はしばらく借りればいい。途中で何か食べるつもりで出ては来たが食欲は無いからいいか、と駐車場へ向かう。
駐車場は少し離れた位置にある。道を曲がった直後に誰かとぶつかってしまい、すみません、と声を掛けた。
あっと声を上げたのは相手で、特高へよく配達に来る少年が目を見開いている。

「お兄さん!大丈夫だったんだ」
「え、あ、はい。こんにちは。焼け出されましたけど無事でしたよ」

ずれた眼鏡を押し上げると身構えていた少年はほっとした様子でぺらぺらと喋りだした。配達に来ていた時もそうだったが、人懐こいのか好きなのか楽しそうに彼は話しかけてくる。それよりもなぜ火事に遭ったことを知っているのだろうかと首を傾げると、彼は少しだけ怒っているようだった。

「あれ、今は眼鏡してるんだ。あんなとこ一人で突っ込んでったら危ないだろ!」
「一人で…?」

火事についてはさっき見に行っただけだ。現場に入れた訳でもない。更に首を捻る。見間違いではないのだろうか。

「朝から城砦で会って、……あれ?人違いかなあ。眼鏡してなかったけど確かにお兄さんだったよ」
「ああ、はい、そうでしたね。大丈夫でしたよ」
「機嫌でも悪かったの?すげー怖かったんだけど」
「眼鏡が無くて」

そっか、おれ配達あるからまたね!と朗らかな笑顔を残して少年は去っていった。
荷物をバイクに括りつけてから、ダン、と拳を打ち付けると紙袋はバキリと嫌な音を立ててそのままぐしゃりとへこんだ。

被疑者になったのは最後に送っていったからだけではない。もう一つ、先輩が証言した時間までに城砦で目撃されていたのも有力な証拠として上がっていた。
そして自分にはそれを実行できる機動力がある。

目の前のそれと今までの実績が首を絞めているのだった。



‐‐‐‐‐




「今日の朝から?」
「顔見知りの少年なんですけど。眼鏡をしてない私が荒川城砦に居たらしいんです」
「いや寝てたわ、二度寝かましたの見たっつーの。しかし眼鏡なァ、お前、火事の日にもしてなかったろ」
「火事の日…は、私ずっと署に…」
「…………はァ?」

じゃァ何だ、ドッペルゲンガーでも出たってのか。荷物を持って帰り着いた頃には、家主は出る準備を済ませた格好で煙草をふかしていた。
紫煙がくゆる向こうに見えるのは、確かに妖怪と呼ぶのに相応しい様相をしている。上着借りましたから、とあった場所に戻すとお前服は買って来なかったのかよとあきれた顔をされた。バイクでそんなに荷物は積めませんから、少し貸して下さい、と荷物の整理をする。取り出したカップは取っ手が割れていた。
あァそうかい無いもんはしょうがねえよなと何着か出してくれる辺り、この人は押しに少し弱い。


「城砦に行きたがる客なんて最近少ねェんだけどな。最後に乗せてったの、アレだ。お前に微妙なカレー食わされた日だ。まっすぐ一直線になんてよっぽどだろ」



prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -