無くしもの


【綾鷹】視覚
眼前には赤が散っていた。随分と滲んで掠れている。
見慣れた赤髪が手を振り、増える。止まると減った。
先生見えてますか。これは何本ですか。二本だ。人差し指だけです。
頭痛にこめかみを抑えながら、おぼつかなくなってきた足元を踏み締めた。

【三綾】失語
私は今までどうやって声を出していたのだろうか。きょうすけさん。袖を引く。振り返った赤ははい、とにこやかに返事をした。
ゆっくりと唇を動かす。こえ、が、でま、せん。明後日の方を向いた兄は視線が定まっていない。
これは困りましたねえ。そう彼はいつもと同じ笑顔を浮かべた。

【早瀬】聴覚
袖を引かれて振り向くと、客だよ、と少年が呟いたらしかった。もっとはっきり、聞こえないよ。何回も呼んだ、んだけど。いつもの騒がしいお兄さんと大きなあの人。やはり彼の声は分からなかった。
少し待つように言って。追い出してから作業台と向き合う。雑多に置いたままだった刃物をまき散らしても、引き攣れた女の叫び声のような何かが遠くで響いただけだった。
店の方に顔だけ出して今日は店じまいだと告げる。片付けを言いつけてから刃物を踏みつけると、やはりろくな声を上げなかった。

【山下】味覚
いつも手伝っている定食屋で賄いを食べて。帰りにお菓子を貰ってそれも食べて。帰ってから水野にも余っていたおやつを貰って食べた。食感は普通。噛み締めれば締めるほど、砂の味がする。口の中に残った砂を水で流し込んで、おれは焼肉食いたいなあと笑った。
明日にはきっと戻ってる。

【奈々子】触覚
左腕に触れる。わかる。左足に触れる。分からない。ぺしぺしと数度叩いてみても振動すら無い。
ふらふらと揺らす左足にはきっちりとテーピングを施してある。朝転んだのだ。くじいたらしかったがそれすらも分からない。出勤してそのまま別科へ世話になるとは。はあ。ため息は重かった。

【ひつか】嗅覚
朝食の支度をと台所に立つ。米を炊き、昨晩の残り物を温める。味噌汁の下準備を始めて、どうも匂いがしないことに気づいた。
二日酔いの同室にと昨夜遅くに作ったのは鮭のほぐし身を少しだけ入れたおかゆで、残りを焼いているのに分からない。おはよ、ええ匂いやなあと珍しく早起きした彼にはさっさと顔を洗って来いと小言を付けて、少し麻痺した舌で味を整えた。

【日奈子】失行
緊急出動命令が下ってから即座にバイクへと跨る。後ろには後輩が、キーを回して、それから。
どうしたんですかあ。急いでいる割にはのんびりとした声が掛かる。キーを、なにを。私はどうやって。
……どうすればこれは動かせるのだろうか。握り締めたグリップは嫌な音を立てて軋んだ。


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bkm
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