そして宴は花満ちた(雇われ魔王の喫茶店)
来賓への挨拶回りをすると言って逃げたアルセールを恨みながら、ヴァンシュタインとフィリーは淡々と、黙々と料理を口に詰める。味の濃い薄いなどの感想はものの十数分で出尽くした。只管に、延々と、若干冷めた目で無意識に。
美味しいという感覚が消えても――いや実際美味しいし、決して不味くはない。口に合わなければとっくに手を止めている。ただ、幾らそれぞれが少量とはいえ、何十種類もある料理を食し続けるのは苦痛すら感じかねない。
最早作業である。陶器の白さが表に出る度に、こちらの胃は埋め尽くされる。
会話はない。喉の機能は音を発するのではなく、やってくるものを飲み込むだけと成り果てた。
胃どころか、口も空気も重い。次第に漂う閉塞感を打ち破る存在は、何もない。何故なら周囲はこちらに近付かないからだ。シャンデリアが突き刺してくる光すら、彼等を避けそうである。
やっと二つの大皿が空になった頃には、度を超えた満腹感にとうとう動かなくなった。
回収に来たボーイが大丈夫かと機嫌を窺うものの、一人として反応しない。もう何も食べたくないというオーラを醸し出され、たじろいだ彼はそそくさと立ち去った。
――嗚呼、立食はきつい。今後は体験したくないものである。ほぼ自業自得とはいえ。
「ふう、レディ達の相手は大変だよ。やっと抜け出せた」
「ふふ……こっちも食の呪縛から解き放たれましたよ……」
蚊の鳴くような声で、辛うじてアイメリッタが口を開く。ヴァンシュタインとフィリーには申し訳ない事をしたな、という反省も滲み出ているが、ちゃっかり危機回避したアルセールには無関係。
「大変だったねアイメリッタ。座って休むと良いよ」
微動だに出来ない彼女を労る手を掴むフィリー。やっとの思いで飛び出した言葉は、彼にとっては実に情けない。
「……俺等にも、気を遣いやがれ」
膨れた腹にやつれた顔で助けを求める。墓穴を掘っても構わないとプライドをかなぐり捨てた言葉に、アルセールは不敵な笑みで応えた。
「好きなようにすれば良いじゃないか、君達は」
随分となおざりな対応に、怒声は飛ばない。それどころではないのだから、当然と言えば当然だろう。
三人は揃ってよろよろと救いの椅子を求める。余りにも哀れである。ちょっと面白い。
「ふむ……アイメリッタが一番辛そうだね」
食の芳しくない二人に対し無造作に料理を選んだ者としての責任を感じて、後半は殆ど彼女がフォークを動かしていた。そのツケか、動きが最も鈍い。
躓かぬようにと足元に気を遣うも、何処か頼りない。まあ、転んだとしても彼女は自身の魔法で対処出来るが。
「おいでアイメリッタ。客間を貸してあげよう」
「え」
ふらふらと力なく彷徨う彼女の手を掴み、ホールを抜けて宮殿へと向かうアルセール。その行動には慎ましく談笑していた紳士淑女達の目も奪われる。勿論、椅子に辿り着いた魔王達も。
「君達はそこで休むと良い。ついでに、僕の代わりにレディ達の接待でも頼むよ」
「はあ!? お、待て、ざけんな!」
「――と、言う訳で。パーティーにお集まりの淑女方、存分に彼等を労って下さい。喜びますから」
ダメ押しの一言に、沈黙が流れた後、耳を劈く嬌声がホールを埋め尽くす。フィリーの抗議は女性の力に押し潰され、やがて聞こえなくなった。
「い、良いんですか、あれ……」
彼等は何も悪くない。寧ろこちらの我儘に付き合わされたのだから、これくらい同情しても怒られないだろう。
素直に可哀想である。あんな状態でまともに彼女達の相手が務まるのか。甚だ不安である。
「君は出来た魔族だね。ふらつきながら彼等の心配までするなんて」
「いや、だって無理させたのは私の所為ですし……寧ろあの二人を」
「それは駄目。一番無理をしたのは君じゃないか」
握られた手に力が少し加えられた。逃げる気は特にないし、もしそれが可能だとしても、彼の魔力なら止められる筈である。何故、直接的な力で抑えるのか。
「無理って……見てたんですか? やけに力強くそう言いますけど」
「気にしてたよ。主に君を」
うへえ。マジですか。食べる事に夢中で欠片も気付かなかった。夢中というか、それが義務だったというか。
「さあ着いた。ちょっと狭いけど、どうぞ」
そう言って開かれた扉の向こうは、彼女の家のワンフロアに相当する、もしくはそれ以上の広さであった。これの何処が、“ちょっと狭い”なのか。
とは言え、今の彼女が暮らしているのは城の客間であるし、それだってこの部屋と何ら差はない広さである。何時か自分も、生まれ育った自宅を“ちょっと狭い”と思う日が来るのだろうと思うと、虚しさを感じる。
「すみません、有難う御座います」
「レディを助けるのは当然さ。パーティーはまだ続くし、暫くしたら迎えに来るよ」
「分かりました」
良かった。一人になれる時間が出来るとは、浮かんだ料理のアイデアを推敲するのに丁度良い。あの賑やかな世界では、思考が長く保てないから。
*************
アルセールは目に飛び込んだ阿鼻叫喚の図に、ただただ笑いを堪えていた。ぎゃあぎゃあと反論していた彼等は、大人しく淑女達の相手を務めているのである。
そりゃあ、年に数回しかお目にかかれない他国の魔王に群がる女性達の気持ちも解る。ひっきりなしに黄色い声を飛ばす様を見れば。
「お相手ご苦労様。何だかんだ言って、楽しくやってるじゃないか」
「貴様……これの何処がそう見えるってんだ。目玉取り替えろ節穴」
楽しげにからかうアルセールに惜しげもなく怒りをぶつけるフィリー。胃がすっきりしたのか、少しは元気になったようだ。顔はより青くなっているが。
ヴァンシュタインに至っては、愛想笑いが張り付いたまま固まっている。どうやら現実を直視出来ていないらしい。人見知りという訳でもないのに、可笑しな魔王だ。
「さて、一旦食事を下げて、円舞曲でも踊ろうか」
一つ、二つと手を鳴らすと、それだけで使用人達が各々の動きを為す。再び人々の靴の音が、曲に合わせてホールを埋め尽くした。
嵐の後のような魔王二人はぐったりとしたまま。それでも、アルセールが一曲は踊れと促すと渋々立ち上がる。
「ったく……面倒くせえ」
「郷に入っては郷に従えです……仕方ありません」
主催者である彼が率先して楽しんでいるのだから、従わざるを得ないだろう。それに、消化を促す為にも体を動かした方が良い。
一息ついているだろう彼女も気になるが、今だけはダンスに集中。早く終る事を祈って、迎えに行こう。
*************
気取られぬよう、魔力を押し殺して彼はその部屋に現れた。世を忍ぶ怪しい動きを咎める者はいない。
すうすうと微かな寝息を立てる少女は、ベッドの端にうずくまっている。この空間唯一の存在。そこに新たに加わった、彼女を見下ろす存在。
彼は何も喋らず、ただ少女の瞳が開く事を心待ちにしていた。早く目覚めて、赤みがかった透き通る茶色の双眸をこちらに向けて欲しい。それを受け止める準備は出来ている。
「――リッタ、アイメリッタ」
辛抱しきれず、一声呼び掛けてみる。とても小さく、確実に彼女の脳に浸透させるよう。
「ん……んー……」
「起きたかい」
「!? あれ、寝て……」
頭上から降った声にはっとして意識を浮き上がらせると、視界を覆っていたのは魔王だった。言っていた通り、迎えに来たらしい。口付けでもしそうな近さのかんばせに心臓が煩く跳ね上がって、鼓動を早める。
「ご、ごめんなさい勝手に……!」
「構わないよ。休む為に宛がったんだから」
整えられていたベッドの皺だらけに、転寝した事を恥じるも彼は爽やかに許した。緩やかな微笑みに、ついこちらも口角を上げる。パーティーはどうしたのだろう。
「ダンスに飽きてね。抜け出してきたんだ。まあ、もうすぐ終わるけど」
「そうですか……魔王様達は?」
「まだいるんじゃないかな。……ねえアイメリッタ」
宴も酣、遠くから聞こえる管弦楽器の調べは楽しげに弾み、聴いていると何だか――
「踊らないかい?」
「えっ」
正しく自分が思った事を誘いかけられ、戸惑いを露わにするアイメリッタ。それは、今此処で、という事か。
「大丈夫。僕が責任持ってリードするから」
基本は踊りながら教えるよ。そこまで言われて、断る訳にはいかなかった。群衆の目がないのなら、まだ大丈夫かも知れない。それに、ヴァンシュタイン達を驚かせられる。
「では、一曲お相手願えますか? お姫様」
もう、お姫様だなんて。差し伸べられた手に、そっと己の指先を重ねる。そのまま甲に口付けされるが、恥ずかしいと突っ込むのは止めておいた。より音の聴こえるベランダに誘われ、レクチャーが始まる。
腰に回された手は少々体重をかけても揺らがない。それよりも、見ているだけと実際にやるのとでは違うと実感させられる。思ったよりも体が密着する事に対して。
「あ、あの、足踏んじゃったら、ごめんなさい」
保身の為に先に謝っておく。確実に数回は踏み外しそうだ。
何せ履いている靴はハイヒールである。お洒落というものに到底縁がなかった――と言うよりは無関心だった――ので、一歩前に進む事すら満足に立ち回れない。
「気にしないで。レディが踊れるようになるなら、大した事じゃないよ」
その“レディ”というのは、踊れない女性全般ではなく、目の前にいる己の事を指しているのか。
時折、彼のセリフの対象が判らなくなる。なりはするが、今はそういった事を気にする時間ではない。
「焦らなくて良いよ。完璧にしろって訳じゃない」
「は、はい……」
そうは言われても、なにぶんダンスのダの字も知らぬ庶民。何に気をつければ良いのやら、体が動くより先に考えてしまう。
「レディ、下ばかり見ないで。上をご覧」
くい、と顎を引かれ、されるがままの瞳に映るのは。
「綺麗……」
今宵は満月。淡い月明かりに照らされるアルセールの金糸と新緑がより妖しく光る。吸い込まれそう。
「――見付けましたよ二人共」
「うわあっ! ま、魔王様!」
「おや、もう終わりかい?」
ダンスの楽しみを味わう前に、ヴァンシュタインとフィリーが突如現れ雰囲気をぶち壊す。どちらも表情が険しいのだが、何かあったのだろうか。もしやまだ、満腹感を引きずっているとか。
「よく、此処が分かりましたね」
「当然だ。何回この国に来てると思ってる」
感心した言葉に返ってきたぶっきらぼうな答え。背後を振り返ると、窓枠に凭れ掛かり腕を組むフィリーがいた。やはり顔は厳しいまま。ヴァンシュタインが引っ付いている彼等を離しにかかる。
「全く油断なりませんね貴方は。隙あらば彼女を独占しようとする」
「それは君達とて同じだろう? 折角二人きりでダンスの練習をしていたのに」
「けっ、俺等を客に売っておいて、よく言うぜ」
不貞腐れるのも無理はない。一方を壁、三方を淑女達に塞がれて、上空に逃げようにもそれを許す隙もなく。
もみくちゃにされたであろうに、着衣は乱れなくきっちりとしているのは流石魔王といったところか。
「さて、お開きですよ」
「早いねえ。もう少し一緒にいたかったのに。ねえアイメリッタ」
「はあ……」
名残惜しそうに言われても。どっちにしろ、この二人が自分達の傍に来るかこちらが向かうだろうと思っていたので、その時点で宴が終わっても邪魔だとは感じない。
まあ、ダンスの練習が余り出来なかったのは少し勿体ないな。この先機会があれば、誰かに教えて貰おうか。
会場に戻ると強烈な熱気が肌を撫でた。窓は全開の筈だが、それにも増して人が多いのだろう。芋を洗うよう、という諺に納得がいく。
数分に及ぶ閉会の挨拶が終わる頃には、生温い風に変わっていた。
――そして宴は花満ちた。