魔王の彼女・後編(雇われ魔王の喫茶店)
この思いつきの「遊び」も、もうすぐ終わる。厄介者を払い終えたら、すぐに。
「よお。早いな」
「ええ、目が覚めてしまったもので」
早朝にやってきたのは侍女長でも宰相でもなく、彼の友人だった。当然のように執務室になだれ込み、自分の居城のように振る舞う。
「……あんだけ巻き込むなって言ってたのにな、お前」
少なからず気にしていた、こちらに来てからのヴァンシュタインの態度。押しかけた時は必死に断っていた彼は、気付けば黙って二人を見守っている。
「おや、お望みなら今からでも止めましょうか?」
「止めろ、それは止めろ」
「解ってますよ。だからさっさと」
「言われなくてもそのつもりだよ」
こうして二人で軽口を叩き合うのも長年繰り返されてきた事だ。こうしていると、昔を思い出す。
「……儂が何もしないのは、貴方の言葉の所為ですがね」
「は?」
しんみりとした空気を運ぶ彼の一言に率直に疑念をぶつける。だがヴァンシュタインは詳しく答えない。さあね、とはぐらかされ、はっきりしない奴だと不満を零した。
「ふぁ……お早う御座いますー」
もしや起こしてしまったか。どきっとして振り返ると寝癖を整えていない茜の髪がひょこひょこと近付く。
「早いですねー」
「まあな。つか、酷い寝癖だな」
揺曳するそれに手を伸ばし、フィリーが直そうとする。アイメリッタがその動作に肩をびくりとさせたのは一瞬で、すぐにされるがままとなった。
「あ、有難う御座います……」
穏やかな眉目秀麗をどきどきしながら見上げるアイメリッタに、ぽんぽんと優しく頭に触れるフィリー。それはさながら歳の離れた兄妹のようで、何とも微笑ましい光景だった。
「そろそろ散歩にでも出かけては如何ですか。二人共」
子供を見守る父親のように、ヴァンシュタインが促す。太陽はもうあんなに高く昇って、我が物顔で大地を照らしていた。入道雲がもくもくと這い出、そこに蒼風が奏でられ。
「分かった。じゃあ行くか、リッタ」
*************
「わあ、綺麗な小川!」
向こうの魔王城にはないらしいせせらぎに感嘆するアイメリッタ。そう言えば昔あいつの城に行った時、川はなかったな。そう思うと、ちょっと優越感が湧く。
「俺も気に入ってるんだぜ、此処」
「ほんと、落ち着く良い場所ですね」
緩やかな流れに顔を綻ばせる彼女が愛おしい。何時までもその表情を見ていたいなんて、たった二日で此処までの感情を抱くとは我ながら喫驚だ。
「おい、あんまりはしゃぐなよ」
「え? きゃっ」
苔に足を取られ、忠告も虚しくアイメリッタは小川へと倒れこむ。ばしゃん、と水の跳ねる音に固く閉じた目を開くと。
「ったく……言った側からこれかよ」
「フィリーさん! あわわっごめんなさい!」
彼女の代わりにその身を濡らしたのは、他の誰でもないフィリーだった。上半身がすっかり川に埋もれている。
「ごめんなさい、大丈夫ですか!?」
「大した事ねー。こんなん魔法ですぐ乾く」
彼女が無事ならばそれで十分だ。アイメリッタを抱えて立ち上がると、子犬のように体を震わせ水を払う。
「あれ、お前も髪濡れてんぞ」
「フィリーさんよりはマシですよ。気にしないで」
一生懸命服についた枯葉を落とすアイメリッタの束ねられた毛先を掴み、見つめる事数秒。徐に水分の含まれたそれにかんばせを寄せ、吸い取るように口付けた。釣られて目で追っていたアイメリッタが飛び上がる。
「ああああのフィリーさん一体何をっ」
分り易い動揺に、失礼とは知りつつも腹を抱えた。朱に染まる肌に浮かんでいる冷や汗を拭ってやり、気にせず庭園へと進んだ。さり気なく手を繋ぐ。何処から見ても恋人であるかのように。
「ほら、これが自慢の庭園だ」
緑のアーチが連綿と続くそこを抜ける。真白の彫刻の足元には水を湛え、その噴水を取り囲むようにして赤や紫の花々が咲き乱れていた。そして更に奥には、一際目立つ大きな銀杏の木があり。
「疲れた時はしょっちゅう此処で休むんだぜ」
ただただ見惚れているアイメリッタを嬉しく思い、さあ寝転ぼうかとした折。
「こちらにいらしたのですね、フィリー様」
「……よお、エレン」
案内役らしき人物も付けず姿を現したのは、目論見通りエレン。存外早く訪れた事に密かに感謝し、見せ付けるようにアイメリッタを抱き締めた。
「お伺いしたい事がありますの。――その方は、貴方様の何ですか」
単語の一つ一つを丁寧に、しかし燃え上がるような怒りを含めてエレンが尋ねる。急に近付いたフィリーの体温にどぎまぎしながら、アイメリッタは口を噤んでいた。
彼女は一度もこちらを映さない。魔王である彼しか眼中にないようだ。
「リッタは俺の――」
アイメリッタは気恥ずかしくて、フィリーの口の動きを追えなかった。自分が引き受けた事とは言え、「彼女」という単語にはいっそ耳を塞ぎたい。
「……俺の、彼女だ」
ぴし、と空気の割れる音がした。麗らかな日差しが凍り付くのではないかと気兼ねする程、底冷えの風が吹き荒れる。
次の瞬間、エレンが嫉妬を露わに叫んだ。アイメリッタはいよいよきまり悪そうに身を捩る。
「巫山戯ないで! そんな庶民がどうやって知り合えると言うの!」
耳が痛い。主に「庶民」の辺りが。普通そうなるよね、と半ばエレンに同情しながら、彼女の癇癪に付き合う。
「知っているのよ! 貴女が本当はヴァンシュタイン様のお気に入りだって事! それなのに!」
急にこちらに矛先が向けられ、次は魔法でも飛んでくるのではと震撼するアイメリッタ。フィリーもそれを感じ取ったのか、回した腕により力を込めた。
「これじゃあ……これじゃ、お父様に……何て言えば良いの……」
「エレンさん!」
崩折れるエレンに対し、憐憫の情が勝ったアイメリッタが駆け寄る。思いの外容易く腕の中から抜け出せた事に気を取られる事もなく、彼女に手を差し伸べ。
「大丈夫ですか? お父様がどうしたんですか?」
「触らないで。貴女に関係ないわ」
鮮明に輝く黒みがかった深緑の長髪が、アイメリッタの手を避けるように流れた。その顔色は窺い知れず。
「どうして……何でよ……」
彼の計画を成功させる為には、後少し嘘を突き通さねばならない。それは十分理解している。
だが、彼女の悲痛な呻きが居た堪れず心苦しい。アイメリッタの思考はぐらぐらと危なっかしく揺れる。
「あの……」
遠慮がちに声をかけ、悲しみにくれているであろう少女を気遣おうとするアイメリッタに、エレンが食って掛かった。
「証明してよ」
「え」
「貴女が本当にフィリー様の恋人だと言うのなら、それを今すぐ此処で証明してみせなさい!」
ビリジアンの双眸が吠える。恋人を証明? 一体どうやって。疑問符を浮かべ固まったアイメリッタを、エレンが嘲笑する。
「あら、出来ないって言うの? 怖気付いたのかしら」
打って変わって高らかに歓声を上げるエレン。その美麗な表情が崩れるまで、僅か。
「ふん、ご希望通り証明してやる」
「え、あの、フィリーさ」
剣呑とした声で、フィリーが再度アイメリッタを抱き寄せる。彼女の顎を捉えると、低く優しい声音で窘めた。
「黙ってろ」
言うが早いか、緊張で何も喋らない彼女の唇を塞ぐ。露骨に強張った背と仰け反る頭を片腕で押さえ、薄開けた瞳でエレンを見遣れば。
「――……っ」
文字通り言葉を失った彼女は余りにも滑稽であった。ざまあみろ、俺を煽るからだ。そっと唇を離すと、未だ目をつむったままのアイメリッタの顔を胸元へ押し付けた。
「これで満足か? エレン」
「な……っ」
見下す視線は何処までも冷酷に。止めを刺すと、エレンはみっともなく泣き叫んで彼方へ消えた。
*************
「……か、おい、おいリッタ!」
ぼうっとしていたらしい。気付けばエレンがいないばかりか、空までもが泣きそうになっていた。もくもくと膨れ上がる入道雲が、涙を零す準備を整えていたのだろう。
ぽつり、ぽたり、雨粒が彼等を徐々に冷やす。動かないアイメリッタの手を強引に掴み、フィリーは銀杏の元へ急いだ。
「暫く雨宿りだな」
本格的に降り出した雨は、庭園の植物達に恵みを与え続ける。数十分は止まないとふんだ所で、彼女を見下ろす。俯いた顔が、こちらの視線を拒んでいた。無理矢理に向かせる事は出来ず、覗き込む形で窺う。
「大丈夫か?」
雨に濡れたのが気持ち悪いのだろうか。下らない予想は外れた。か細く揺らぐ声が、小さく訴える。
「……して」
「は?」
「どう、して、あんな、こと……」
あんな、事。出来る事ならそれが何を指すのかは気付きたくなかった。かと言って誤魔化す気にはなれず、彼はただ口を閉ざすに留めた。
途端、堰を切ったようにアイメリッタが捲し立てる。
「だって、これは彼女“役”でしょう? ただの演技なんでしょう? 何で、それで……」
信じられない、そう抗議する夕焼け色の瞳が混乱をそのままに射抜く。ちり、と胸の奥が焦げた。
「じゃあどうすりゃ良かったんだよ。あいつに煽られて、お前はどうするつもりだったんだよ」
怒鳴りそうになる思考を抑え、努めて冷静に返す。心臓がぐるぐるして、落ち着かない。気が狂いそう。
「わ、たしは――」
それきり沈黙した彼女に業を煮やす気持ちで頬を捕らえ、彼は言った。
「好きだ」
「――!」
切なさの中に隠し切れない熱さを秘め、潤んだ双眸に再度ささめく。
「俺はお前が好きだ。リッタ」
まるで言い聞かせるように、耳元に近付いて。アイメリッタが勢い良くフィリーを跳ね除けようとする。
「嘘、何で、そんなこ……っ」
「煩い、泣くな」
いっぱいいっぱいになって否定する彼女に苛立ちともどかしさを覚え、堪らずその唇を奪う。先程よりも深く、奥へ。
「……っ、んっ」
ぞわり、ぞわりと痺れるような寒気が体を占める。口内に侵入した生温い舌に身を震わせて離れようとするも、頭と腰をがっちりと掴まれてはそれも敵わない。次第にその感触に蕩けてゆく脳に、縋るようにフィリーの服の裾を力なく握り締めた。
「は、ぁっ……」
長い長い口付けにやっと解放されたと思う間もなく、倒れ込むアイメリッタ。そっと受け止めるフィリー。雨音は何時の間にか静かになっていた。荒い呼吸以外には何も聴こえない。雑音でもあれば、何も考えずに済むのに。
細く小さい彼女を抱き竦める。逃がさぬよう、きつく。全身の力が抜けたアイメリッタは最早無抵抗で、濁っていく視界をどうする事も出来ずにいた。
何が現実で、どれが夢なのか。全てが夢で、全てが現なのか。神経を駆け巡る熱に浮かされ、呆けたまま。ありとあらゆる感覚を失った手先が異様に冷たい。気分屋の空には太陽がちらりと浮かび、濡れて張り付いた髪や衣服を光がすり抜ける。
何も考えたくない。それだけが、会話のない二人に共通した感情だった。