自棄(やけ)のとばっちり(悪魔と物書き)
「久しぶりに酒飲まねーか」
珍しく相野田が晩に家を訪れ、一升瓶を掲げてニコニコと満に誘いをかけた。丁度これから夕飯をとろうかと思っていたので、それは願ってもない事。入れよと促すと何時の間にか傍に寄って来ていた藍が遅い来客に喜んだ。
「アイちゃんも一緒に晩御飯食べるん?」
「おー、腕によりをかけるぞー」
そうして一時間後にはちゃぶ台に所狭しと皿が並べられ、その様子を藍がきらきらした瞳で見つめる。元気よく頂きますと手を合わせると真っ先に藍の箸が相野田の料理にかぶりつく。
すると料理そっちのけで日本酒を注ぐ満等が視界に入り、自分だけ置いてきぼりをくらった気がした藍は、物欲しそうにそれを見つめた。
「……やらねぇぞ」
ぴしゃりとそう言われむっと膨れたものの、煮物と焼き魚の香りに鼻腔を擽られ機嫌を直す。今飲めないなら後で飲めば良い。怪しげな笑みを浮かべ一口また一口とおかずを消化していく。その意味ありげな笑みに一瞬警戒したものの、満も箸を進めた。
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あれだけ皿で埋まっていたちゃぶ台に今は埃一つも乗っていない。
土産にと余った日本酒を置いていった相野田に感謝し、満が居間にいないのを良い事に藍は一升瓶に手を伸ばす。蓋を開けると香りがつーんと鼻に来、僅かに咳き込んだが構わず口に寄せ一気に含む。何度かそれを繰り返した頃には出来あがっていた。
「あ、お前!」
満が気付いて止めるも遅し。頬は紅潮し目も見事に虚ろになった藍はまだ足りないと言わんばかりに取り上げられた瓶にしがみつこうとする。
「返せぇそれー」
「誰がやるか! 結構な量飲みやがって」
満は絡み付く腕を跳ね退け日本酒を台所へ素早く移動させた。俯せで倒れたまま支離滅裂な事を呟く彼女の酔いを醒ます為布団を敷いておく事も忘れず。
「起きろ、んな所で寝んな」
「うぐぅ……邪魔、すんなぁ」
壁伝いに一人で立ち上がろうとする藍の足元は非常に覚束ないもので、見かねた満が支えようと手を差し延べたその時。
「う、わっ」
「!」
自分の着物の裾に躓いた藍が立ちはだかる満にぶつかっていくように前のめりに崩れ、彼女を庇うよう放り出した満の腕がガンっという音を立て柱の角に思い切りぶち当たる。余りの痛さに骨が痺れ、確認すると。
「ってー、血出てるし」
その一言に藍が弾かれたように顔を上げた。
「血ぃやて!? だいじょ」
「あーあー大した事ねぇから騒ぐな。ほら立て」
「う、頭痛い……」
鬱陶しそうに満が体を起こすと呑み過ぎた結果か藍がふらふらと頭を抱える。腕は痛みで上手く動かせず僅かに血が流れるが、幸い利き手ではなかった為支障はない。
「ったく、面倒ばっか起こしやがって」
怒りつつも支える手に力を込め抱き抱えると藍は猫のように額を擦り寄せしがみつく。
「気分悪いぃ……」
「全く馬鹿だなお前は」
「煩いわぁ、ミツのあほぉ……」
文句を吐ける位なら十分元気だなとからかうも、彼女は早くも寝る体勢に入っており。呆れたような溜息をついて満は隣の寝室へと成丈体を揺らさぬよう慎重に運んだ。
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朝目が覚めると満の胸元が否応なしに目に入り、次いで顔を上に向けるとあどけない寝顔が映った。そこでようやく自分が添い寝されているのだと気付く。しかし、その原因が思い浮かばない。昨日あの一升瓶の中身をぐいっと飲んだ辺りから記憶がすっぱりと抜け落ちているのだ。
「腕どけて」
くれへんかな、と続ける筈だった言葉は途切れた。
隠れてはいるが、着物の隙間から肌色にしては不自然に白い部分。よくよく見るとそれは包帯だった。何故こうなっているのだろうか。昨日の夕飯の段階では見られなかったものだ。
「……まさか」
嫌な予感がした。もしやあの飲酒の後に何かあったのではないか。そしてその何かに、自分が直接関わっているのでは。そう気付いた途端、はっきりと心臓が大きく鳴った。冷や汗も体感出来る程に出る。
――どうしよう、まさか怪我をさせるなんて。利き腕ではなかったのが不幸中の幸いか、いや良くない。世話になっているという自覚があるだけにこれは痛い失態。でもこの間の行動で勝手に外に出るなと重い釘を刺されている。ならば家で彼の負担を減らすよう立ち回ろう。そこまで思考が巡って、藍は隣の寝顔を見遣った。
「まずは起こさんように布団から出る事や」
そう意気込んで、腕の怪我に触れぬよう藍は慎重に慎重を重ねてすり抜けた。
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一時間余り暇を潰し、起きているだろうかと静かに襖を開けてちらりと覗く。彼はまだ熟睡中だった。拍子抜けしたが、いい加減一人でじっとしているのは嫌なのでそろそろと傍に寄り声をかける。
「おーいミツー。起きてーやー」
――しぃん。声を発しても無音。
仕方ない、強行手段だと手を伸ばすと、何処からそれを感じ取ったか腕を掴まれまた布団に寝転がる。半身を掛け布団に包まれているミツの身体が震えていた。
「ちょお、ウチは布団やないで。起きぃや」
「るせー、寒いんだよこっちは」
小言に反論しているということは一応意識はあるらしい。余程身体が冷えるのか両腕でがっしりと掴んで放さない。
「寒いて……風邪でも引いたん?」
身動きが取れないので熱を測る事も出来ず、藍はせめてもの癒しになればと仕方なく目を閉じて眠る振りをした。
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寝る気はないという意思は温かさの前に掻き消えてしまっていたらしい。転寝のつもりはなかったのにと頭上を確認すると満と目が合った。
「わ、起きてたん? 言うてくれれば良かったんに」
「別に。て言うか寒い。まだ寒い」
「やっぱり風邪引いたん違う? どれ」
怠そうな表情の額に手をやると若干ながら自分のそれよりも熱を帯びており、藍は飛び起きて洗面所へと向かう。桶を取り水を汲んで手拭いを濡らすと零さぬよう寝所へと運ぶが、それが視界に入った瞬間、満の表情は芳しくなくなった。
「良いって、ほっときゃ治る」
「あかん、引き始めが肝心やねんで! 何で布団もう一個あんのに出さへんかったん」
「腕が痛いからだよ。悪かったな」
はっとした。今の一言は余計だったかも。いや間違いなく。
「う、ごめん」
「何が」
「いやだって、その……」
余りにもあっけらかんとした満の態度に何故だか謝罪の理由を言い辛く思い、藍はごまかすように満を寝かせた。水に浸した手拭いを固く絞り、整えて置く。
「とにかく、今日一日そうしときや。無理は禁物!」
「……この間と逆だな」
そういえば、前に安静にしてろと言われたのは藍の方だった。思い出し笑いをすると、満に頭を小突かれる。
「痛! もう、ちょっと笑っただけやん」
「……あーあ、早く昼になんねーかな」
数日で自分が看病される側になるとはお粗末な展開だと、満は欠伸を噛み殺して思った。