第三話 花筏


「貴方の名前はシンっていうのね…?」

私が再び聞き直すと、彼はゆっくりと黙って頷いた。助けてくれた時は名前を教えてくれなかったので、私はやっと彼と打ち解けることができたのだと思い、自然と唇の端に笑みを浮かばせた。

「素敵な名前ね。慎み深い貴方に、ぴったりの名だと思うわ」
「…フッ、そう捉えるか。…歳のせいだろう」

彼は片膝を立て、そこに手を置きながら目の前に流れる川を伏し目がちに見つめていた。

「歳…?言う程、歳をとっていないでしょうに。」

彼の年寄臭い言葉とは異なり、若々しく見えた。私が見る限り、歳を取っていたとしても三十代後半くらいだろう。彼は私の言葉を聞いて驚いたのか、目を少し見開きながら私の方へと視線を変えた。

「そう見えるか。ならば、いくつ位に見える?」

彼に尋ねられたので、私は彼を見つめながら右手を頬に当てて、暫くの間考え込んだ。

「そうね…四十の手前くらいかしら」
「そうか」

彼は目を閉じると、少し笑みを含ませながら再び川の方へと視線を変えた。

「……ねえ、答えたのよ。本当の答えを教えてちょうだい!」
「俺の歳など聞いて、お前に何の得があると言うのだ。聞かずとも良いだろう」
「なっ…なんて人なの!聞いておいて、答えないなんて!」
「愚痴愚痴言わず、早く食べろ。冷めてしまうぞ」

彼は私が手に持っている魚を見て、指を指す。言い返しても、すぐに彼に言いくるめられてしまうので、私は少し不服に感じていた。
彼を睨みながら、私は黙々と食べ始めた。

「フッ、よく食べるな」

彼は焼き魚を食べながら、私を見つめて言った。
彼に言われ、我に返ると――確かに、私は先程の苛立ちからか、何匹もの焼き魚を口に運んでいた。恥ずかしさで次第に頬が赤くなる。

「悪いかしら…!」
「いや、悪いとは言っていない。女子の割に、よく食べると思っただけだ」

彼にそう言われた瞬間、更に顔が赤くなった。
もう少し、場をわきまえるべきだった。
男の人の前で、ひたすらに魚を食していたのかと思うと、恥ずかしさで穴に入りたくなった。
私は焼き魚を食べ終えると、彼から背を向けて、顔を埋めながら膝を抱き抱えるようにして座った。
嗚呼、私は初めて出会った男の人の前で、何て事をしてしまったのだろうか。彼は私の事を、はしたない女だと思っているに違いない。私は下唇を少し噛みながら、何度も心の中で後悔していた。

「どうした」

すぐ側で彼の声が聞こえたので、素早く横を見ると、目の前に彼の顔があった。

「きゃあ!驚かさないでちょうだい!」

思わぬ所に彼がいたので、私は大きな声をあげてしまった。彼は私の顔を窺い見るように、目の前に立っている。

「驚かしていない!何度声をかけても、無視し続けてたではないか」

彼は眉間に皺を寄せながら私に言う。

「そうだったの…? 私ったら…気付かなかったわ。ごめんなさい」

私はどきどきと拍動する心臓を抑えるように、胸元に手を添える。

「俺はそろそろ帰る。道案内を頼んでも良いか」

――帰る…?
私はその言葉を聞いた途端、顔を見上げた。
彼は既に釣り道具を片手に持ち、帰る準備を整えていた。

「もう帰ってしまうの?」

私は心の中で思っていた言葉が口から出てしまっていた。

「ああ、そろそろ日が暮れるだろう」
「……そう、ね…」

何故だか分からないが、心がかなり動揺しており、片言の言葉しか出てこなかった。

「分かったわ。途中まで送って行ってあげる」

私は立ち上がると、彼と共に川沿いを歩きながら帰路へと向かった。この川沿いに歩けば、この山の入り口へと辿り着くことができる。彼を先導するように、私は彼の前を黙って歩いていた。私達の間に沈黙が訪れる。私の後ろを歩く彼が気になって仕方がなかった。――彼を送ってしまえば、もう二度と彼とは会うことはできないのだろうか。
そう思った瞬間、私は、はっと息を呑んだ。
私は何故、先程から彼のことが気になっているのだろう。初めて出会った人だというのに、私は彼の目や言葉を気にしている。そう思うと、心臓の鼓動が自然と早くなった。
苦しい心を堪えるように目を思い切り瞑り、見開いた時だった。私は川の水面に流れる一枚の桜の花弁が目に入った。その花弁に引き寄せられるように、私は思わず歩を速める。何故だか分からないが、とても懐かしい思いがしたのだった。その花弁の後を追っていくと、川の水面を覆うように沢山の桜の花弁が浮かんでいる光景を目にした。川の近くには、桜の大樹が聳え立っていた。何年もの間、この美しい土地を守ってきたのだろうか。神々しく聳え立つ桜の大樹に、私は見入ってしまっていた。

「お前はよく分からない女だ。急に走り出したかと思えば、すぐに立ち止まる…俺を困らせたいのか」

背後から彼の声が聞こえたので、私は振り返った。

「あっ…ごめんなさい。」

彼は少し苛立ったような顔を私に見せていたが、大きく溜息をつくと、目の前の大樹の頂へと目線を向けた。
優しい春の風と共に、桜の花弁がひらひらと舞い散っている。
私は彼の横顔を見つめていた。木漏れ日に照らされた白銀の髪と舞い散る桃色の花弁の調和が美しい。その美しい光景と相対するように、彼は矢でも射るかのような鋭い目線を大樹の頂に向けていたが、そんな彼の瞳の髄には優しさが宿っているように感じた。私は首を僅かに傾けて、うっとりとした気持ちで彼の顔に見入っていた。

「なんだ」

私が我を忘れて彼を見つめていた時、彼は私に顔を向けながら呟いた。

「…なんでもないわ。」

急に顔を此方に向けられたので、私は胸に手を当てながら彼から背を向けた。気まずい雰囲気になったので、何か言うことはないかと頭を働かせる。そして、目の前の景色を見て、ある言葉が浮かんだ。

「見て…花筏よ。水面に散りばめられた花弁が、まるで浮橋のようよ」

私は川の水面を指差しながら言った。

「ほう、風流な事を言うもんだ」

彼は川の水面へと目線を変える。

「だが、花筏にはもう一つ意味がある」
「何かしら」

彼は川のほとりに立つと、少し哀しげな表情で遠くを見つめていた。

「"死者を弔う"という意味だ」

私は思わず口元に手を添えた。彼にとって何かまずいことを言ってしまったのかもしれない。しかし、彼は表情を変えずに、静かに流れる川の流れを見つめていた。
もしかしたら、彼には過去に誰かを亡くしたのかもしれない。
彼の表情を見て、そう思った。彼にここまで想わせるとは、一体誰なのだろうか。
――愛する人でもいたのだろうか。
その時、私は胸がキュッと痛くなった。

「すまん、暗い話をしてしまったな」

彼は私の方へと顔を向けると、唇の端に僅かな笑みを浮かべた。

「いいえ、大丈夫よ。」

私はぎこちなく笑みを浮かべて、彼に言った。

「この辺りは大分山の麓に近いだろう。もう十分だ。長く付き合わせて悪かった」
「いいえ、今日はとても楽しかったわ。それに…私を救ってくれてありがとう」

私は彼に一礼をした。

「人助けに一々礼は要らん。お前のお陰で久方ぶりに良い場所に来た。俺こそ礼を言いたいところだ」

私はその言葉を聞いた途端、素早く顔を上げて彼を見た。彼はとても満足そうに笑みを浮かべている。彼の言葉と表情から、私の心は一気に華やぎ、自然と笑みが溢れた。

「また、会えると良いわね……」
「フッ、お転婆娘に再び付き合わされることになるのは御免だ」
「なっ…!私は、お転婆なんかじゃないわ!」

彼は腰に手を当てながら、笑っていた。最初は少し怒っていた私も、彼の笑いに釣られて同じように笑っていた。なんと楽しい時だろうか。これ程笑ったのは何時ぶりだろうか。
彼と離れたくない。彼の事をもっと知りたい。
心の中にいる今まで感じた事のない何かが密かに芽生えていた。

「そろそろ日が暮れる。お前も早く家に帰れ。」
「ええ、そうするわ。じゃあ…また、ね…」

彼は私から背を向けて二、三歩程前に進むと、急に立ち止まり、私の方へと振り返った。その瞬間、私達の間に風が吹き、桜吹雪の如く桜が舞っていた。
また、逢えますように。
そう願いながら目蓋を閉じて再び開けた刹那、彼は既に私の目の前から姿を消していた。


***


「ただいま…」

夕暮れ時になり、私は家に着いた。
玄関口で草履を脱いでいると、義父母が私の元に心配そうな面持ちで駆け寄って来た。

「こんな遅くまで何やってたんだい!しかも、折角の見合いを台無しにして…全くお前は、どこまで私達に心配をかけさせるの」

義母はかなり怒っていたが、私の髪を撫でると、胸に抱き寄せた。力強く抱きしめられ、中々離してくれない。余程、私のことが心配だったのだろう。私は義父母に対して申し訳なくなってしまい、涙が溢れた。

「全くお前は…。しかし、無事で良かった…」

義父も私の頭を撫でて、慰めてくれた。歳をとった義父母に迷惑をかけるとは、私は親不孝者だ。
最低な娘だと思った。

「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」

私は義母の胸元で泣きながら何度も謝った。次第に感情が昂り一頻りに泣いていると、義母が私の背を撫でながら、そっと胸元から引き離して

「もう、泣くのはおよし。腹が減ってるだろう?夕ご飯もできているから、うんと、お食べ」

と言った。私は涙を拭きながら、こくりと頷いた。

「それに…今日はあの方もいらっしゃるぞ。」

義父が言った途端、私は一気に涙が止まった。

「まさか…柱間様がいらっしゃるの?」
「ああ…お前のことを大層心配していらっしゃる」
「柱間様がいらっしゃるのね!嬉しいわ!」

私は胸を躍らせて、部屋へと向かおうとするが、

「これ、お待ち。着物が大分汚れているじゃないの…」

と言われ、止められてしまった。私は自分の身なりが汚れている事に気付き、羽織りに触れた。その時、ふと彼――シンを思い出した。シンに返し忘れてしまった。私は羽織りの衿を少し摘んだ。

「この羽織りはどうしたんだい?葵の物じゃないだろう?」

義母は羽織りを脱がそうとしたが、私はその手を止めた。

「近所の子に貸して貰ったのよ。私が洗って返すから…」

私は羽織りを脱ぐと、義父母の元から離れ、自室へと戻った。
部屋に着くと、私は羽織りを畳み、部屋の隅の義母に見つからないような所に置いた。男物なので、怪しまれるかもしれないと思ったからだ。
私は新しい着物に着替え、髪を軽く整えると、柱間様の所へと向かった。
柱間様が我が家に訪れるのは久方ぶりだった。いつも私に良くしてくれているので、毎回いらっしゃる度に胸が踊った。部屋に着くと、私は襖越しに「失礼します」と言い、襖を開けた。

「おお…!葵か!久しぶりだのう」

柱間様は優しい笑みを浮かべながら、私を部屋に入るよう促す。

「柱間様、久方ぶりです。今日はお越しいただいて嬉しいです」

私は柱間様の隣に座った。
部屋には既に義父母がおり、義母が食事を並べていた。

「さあ、二人ともお疲れでしょう。沢山食べなさい」

と義母が言うと、私達は「いただきます」と言い、食べ始めた。山の麓で採れた春の野菜に彩られた義母の食事は相変わらず美味しい。そして、大好きな人達に囲まれて食事をするのは、とても幸せだった。黙々と食べる私に

「さっきまで泣いていたのに、この子ったら…」

と、義母は笑いながら言った。柱間様も私を見ながら

「元気なことは良いことぞ」

と言って、私の頭を撫でた。私は柱間様に笑顔を向けながら、口に含ませていた物を飲み込んだ。

「柱間様、最近はお忙しいのですか?」
「まぁ、な…。だが、俺も歳ぞ。火影の座を扉間に譲ることになってな…」
「まぁ、扉間様に…」

私は度々柱間様から、弟の扉間様のお話をきいていた。扉間様はとても仕事熱心な方らしく、歳が中々いっているので柱間様が見合いを持ち掛けるも、全て断り柱間様を困らせていると。話を聞く限り、扉間様は柱間様とは全く異なり、とても怖い方なのだろうと思っていた。

「一ヶ月後に、二代目火影就任式がある。是非、葵にも来てもらいたい」

柱間様は一際大きな声で私に告げた。私は思いも寄らぬ出来事に驚き、体が固まった。

「えっ…私が行っても良いのですか?」
「勿論ぞ!葵には特等席を用意しておくぞ」

柱間様は私にそっと囁くようにして伝えた。

「嬉しいです…!わぁ…とても楽しみです…!」

私は嬉しくなり、箸を置いて頭の中で想像をしていた。火影就任式――きっと、豪勢に行われるに違いない。私は小さい頃から木の葉の里の中心部から大分離れた農村部で育ち、柱間様が住む中心部がどのような所なのか全く知らない。やはり、こことは違って沢山の建造物があり、多くの人が住んでいるのだろう。
柱間様と義父母が談笑してながら食事をしている間、私は未知の世界に胸を躍らせては、早く時が過ぎて欲しいと心の中で願っていた。


食事を終え、私は湯浴みを終えると、柱間様と共に部屋の縁側で茶を飲みながら話をしていた。昔から柱間様とは、夜が更けるまで他愛のない話をすることが多く、私はこのひと時が大好きだった。

「葵、今日も見合いを断ったらしいな…」
「聞いたのですか? 私はお慕いしている方でないと、結婚する気はありません」

柱間様は少し溜息をついて、真剣な面持ちで私を見る。

「葵、そなたも良い歳だし、両親を安心させる為にも身を固めた方が良いと思うぞ」
「柱間様…何故、お慕いしていない方と結婚しなくてはならないのですか。一生を共にする相手は、私が決めます」
「葵……」

柱間様は腕を組みながら考え込む。私は夜空に浮かぶ月を見て、湯呑みをそっと持ち、茶を飲んだ。

「母と父のように、互いに愛し合える方を見つけたいのです…私は間違っていますか?」

私は柱間様を見た。

「いや、間違ってなどいない…。分かった、そなたの気持ちは充分に伝わったぞ」

柱間様は私を見て、笑みを浮かべた。月の光に照らされた柱間様の顔を見ると、自然と優しい気持ちになれる。父のように接してくれる柱間様に、つい我儘を言ってしまい申し訳なく思ったが、どうしても結婚だけは自分自身で決めたかった。

「そなたが好きになる男は、いつ現れるかのう。実は今日の見合い相手は、俺も見込んでいたのだが…」

柱間様は少し困ったような表情を浮かべて、私の頭を撫でながら言った。

「柱間様もあの方を推薦したのですか? あの様な方は好きにはなりません」

私は少し不貞腐れながら、柱間様をちらりと見た。

「ははは、そなたはしっかりとした考えを持つ女子ぞ」

柱間様は豪快に笑う。

「もし好きな男が現れたら、俺にこっそり教えてくれ」

柱間様はにやりと笑いながら、私に小声で言う。

「ええ、勿論です。柱間様には伝えますわ」

私は笑みを浮かべながら柱間様に言った。

「そう笑うと、ますます母に似てきたな…好きな男と結ばれたなら、そなたの母も喜ぶだろう…」

柱間様は目を細めながら、懐かしそうに言った。

「私の父も喜ぶでしょう…?」

私は少し身を乗り出して言った。

「…ああ、そうだな…」

柱間様は私から目を背けて、地面をみつめながら言った。

「父は…柱間様と仲が悪かったのですか? 昔から柱間様は…父のことを教えて下さらない」

私はずっと前から、この事が心の中で引っかかっていた。柱間様は父の話をしたがらない。はっきりとした答えが知りたくなり、私は思わず口を滑らせた。

「仲が悪かったわけではない。ただ、考えが違っただけだ…」
「考えって…?」

私は更に問い詰めるが、柱間様は急に黙ってしまい、暫くの間考え込んでいた。

「……もう、この話はよそう。……だが、そなたは…年々、父にも良く似てきている。特に、目と性格がな…」
「そうなのですか?」

私は嬉しくなり、頬に手を添えた。

「ああ。そなたがもっと分別がついた頃に、父の話をしよう」
「分かりました」

何故、柱間様が私に父のことを話したがらないかは分からないが、いつか話してくれると仰ってくれたので、私は少し安心をした。何か深い理由があるのだろう。そう自分に言い聞かせ、父の話を柱間様の前でするのはやめた。
私は再び夜空を眺めた。雲の垣間に浮かぶ月が今日は欠けることなく、まん丸い。その美しい光に魅せられていると、ふと、シンの顔が思い出された。白銀の美しい髪と大きく切長の赤い瞳を持った彼。

彼も今宵、この月をどこかで眺めているのだろうか。



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