第二話 偽りの名
私は男の人の手を取りながら、子供の頃によく遊んだ川の方へと歩いていた。
暖かい陽気に、木々から漏れ出る陽射しが眩しい。
何故だか分からないが、この人に自然と惹かれている自分がいた。
心が自然に高まり、私は片足で二歩ずつ交互に軽く飛びながら進んでいた。
「おい、どこまで行くつもりだ!」
と背後から声が何度も聞こえていたが、私は「もうすぐで着くわ!」と言い、突き進んでいた。次第に川の流れる音が聞こえ、歩みを止めた。目の前には、青く澄んだ川が流れていた。明るい日光に照らされ、眩しい程に水面が光っている。
「いつまで俺の手を握っているつもりだ」
私が茫っとしていると、背後から芯を貫くような鋭い声が聞こえ、思わず振り返った。
「あ、ごめんなさい…」
私は手を離すと、はしたない事をしてしまったと今更ながらに思い、顔を俯かせた。
「お前が言っていた所は、ここか?」
男の人は川岸の方へと歩を進めた。私は男の人の後を追った。
「ええ、そうよ」
「そうか」
男の人は淡々と答えると、釣り具を持って、目の見えぬ速さで、対岸の所の大きな岩の上に立った。そして、魚を釣る準備を始める。
――もしかして、忍なのかしら?
私はその動作や妙に落ち着きのある佇まいを見て、なんとなく忍なのではないかと感じていた。更にその男の人のことが知りたくなり、私は男の人の後を追う為、川の中に入り、対岸の方へと向かった。
「おい、何をしている?!」
私は着物を膝の辺りまでめくり、川の中へと入ると、男の人は声を大きくして私に言った。
「私も一緒に魚を釣りたいわ!小さい頃に魚をよく釣っていたから、腕には自信あるもの」
私が男の人の元に辿り着くと、男の人は私の足元を見て、怪訝な顔をする。
「男の前で足を晒すな。みっともないと思わんのか」
「………!」
男の人に変な所を指摘されて、顔が赤くなった。この人はなんと堅物なのだろうか。私の義父よりも口がうるさい。見かけに寄らず、老人のような考えを持つ人だと思ってしまった。
「邪魔だ。俺は一人で釣る。さっさと立ち去れ」
男の人は手を払い、私を遠ざけようとしていた。私は後退して、その人から離れると、男の人は釣りを始めていた。私は暫くの間、釣っている様子を少し離れた場所から膝を抱えながら見つめていた。
「……そんなんじゃ、釣れないわよ」
「……なに?」
「こうやって仕掛けないと…」
私は長い時間をかけて、この人に釣りを教えていた。
ここの川は美味しいヤマメが釣れることで有名だが、釣るには少し工夫が必要だった為、餌の種類やら仕掛け方まで、一から丁寧に教えた。
そして、時間も忘れて、私達は釣りに夢中になってしまい、いつの間にか魚籠から溢れてしまう程にヤマメを釣っていた。
「そろそろ、休憩するか」
「…そうね!日も高くなって、暑くなってきたし…」
男の人は竿を岩を壁にして立てかけると、日陰の方へと涼みに行った。私は布を取り出し、川の水を含ませて額に滴る汗を拭い、男の人の側に座った。
「……フッ、見かけの割に男勝りな性格をしているんだな」
男の人は少し笑みを浮かべると、呟くように言った。
今まで無表情で厳しい顔をしていたので、初めて見せる笑顔に私は胸が鳴った。
「…そうかしら…小さい頃に近所の子と、ここで魚を釣っていたから…」
「そうか。幼い頃からずっと、ここに住んでいるのか」
その時、男の人は私の方へと顔を向けると、鋭い目線を向けて私に言った。
「……ええ。……なに…?私の顔に何か付いてる?」
あまりにも男の人は私の顔を見つめるので、私は顔が次第に赤くなってしまい、頬に手を添えた。
「……少し似ていると思ってな」
「誰に?」
男の人が私に少し近づき、じっと鋭い瞳で私を見つめるので、私は反射的に男の人から少し離れた。
「……いや、なんでもない」
男の人は私から離れると、腰にぶら下げていた竹水筒を手に持ち、水を飲み始めた。
――誰かに似ている…?
私はその言葉が心の中で引っかかっていた。
もしかしたら、この人は何かを知っているのではないかと思った。
私は男の人の方へと近寄った。
「……なんだ」
男の人は竹水筒を手に持ったまま、目線だけを私の方へと向けて呟いた。
「……貴方、さっき私の顔を見て、誰かに似ているって言ったわね?私は誰かに似ているの…?」
そう告げた瞬間、身体中に響き渡るように胸の鼓動が高まっていた。
――この人はもしかしたら…私の両親を知っているのかもしれない。
初めて会った男の人がそんな事を知っているわけがないと思うが、妙な考えが脳裏に過り、私はどうしても聞きたくなってしまった。
「俺の勘違いだ、気にするな」
「……本当なの?」
「…ああ。……それよりも近寄り過ぎだ。もう少し離れろ」
「……あっ!ごめんなさい…!」
ふと我に帰ると、男の人との距離が無くなる程に近寄っていた事に気付いた。私は恥ずかしくなってしまい、飛び跳ねるようにその場から離れた。
男の人は怪訝な顔で私を見つめると、溜息をつき、水を再び飲んでいた。
「…あっ、そろそろご飯にしない?釣った魚を食べましょうよ!」
私は気まずくなってしまった雰囲気を変えようと、先程沢山釣った魚が入っている魚籠を持ち、提案をした。
「…そうだな、そろそろ飯にするか」
「…あっ…じゃあ、私…小枝沢山集めてくるわね…!」
思いの外、提案に乗ってくれたので少し驚きつつも、私は小枝を集める為、近くの林に向かった。
小走りで向かっている最中、私の頭の中はあの男の人のことでいっぱいだった。
不思議な事に、私はあの人に惹かれているようだった。
陽射しに照らされ、きらきらと硝子細工のように光る白い髪。水晶玉のように引き寄せられてしまうような紅い瞳。
私は小枝を集めていると、あの人の顔を思い起こしてしまい、思わず手を止めてしまった。
今まで、男の人を思い出したり、気に留めることなどなかった。初めての感情に戸惑い、私は口元に手を添える。
――なんだろう。この気持ち…
「おい」
「…ひやぁ!!」
背後から男の人の声が聞こえ、驚いてしまい、変な声が出てしまった。すぐさま振り返ると、そこに立っていたのは、あの男の人だった。
「びっくりした…驚かさないでちょうだい!」
「なんだ、その言い方は…!……中々帰ってこないから、来てやったのだ」
「私を迎えに来てくれたの…?」
私は少し嬉しくなり尋ねてみると、男の人は目を細め、はぁと大きく溜息をつく。
「また変な輩に絡まれているのだろうと思ってな」
「…ありがとう。心配してくれて…」
男の人は目を大きく見開くと、顔を赤くして口を引き攣らせる。
「…心配などしていない。どうせまた、フラフラとしているんだろうと思っただけだ」
「…フラフラって…!私、そんな不注意な人間じゃないわ!」
「うるさい、早く帰るぞ。」
男の人は私を一瞥し、背を向けて歩き始めた。私は小枝を胸に抱いて、男の人に付いて行った。
前を歩くこの人の背中は、とても大きかった。
身長もかなり高く、体格も非常に良い。こんなに逞しい身体をした男の人は、村中を探してもいないだろう。その鍛え上げられた身体を見て、私はそこらの人間では無いと直感で思った。
そんな事を思いながら歩いていると、いつの間にか私達は林を抜け、先程いた場所に戻っていた。
そこには既に、下準備を終えた魚が置かれていた。
「ありがとう。下準備してくれたのね!」
「……フン」
私が小枝を置くと、男の人は火打石で火を起こした。そして、串打ちをした魚を円を描くように地面に刺し込み、炙った。
私達はパチパチと鳴る火を黙って見つめていた。
長い沈黙が訪れ、何か話題はないだろうかと頭を巡らすが、中々出てこない。
「…お前は忍ではないようだな」
その長い沈黙を破るように、男の人は私に言った。
「…ええ。私は忍でもない、ただの人間よ」
「…そうか」
「…そういう貴方は…忍なの?」
その時、私は大きく息を吸いながら言った。
「……ああ」
男の人は少し躊躇っていたが、はっきりと答えてくれた。
――やっぱり、忍だったのね。
私は今までの事を思い起こしては、納得していた。
母の教えもあり、私は忍というものに対して、あまり良くは思えなかった。しかし、同じ忍である柱間様やこの人を見ると、忍に抵抗感が無くなり始めていた。
「そろそろ、焼けてきたぞ」
男の人は魚の方を指差して言った。
「とても美味しそう!早く食べたいわ!」
私が両手を口元に添えてそう言うと、男の人はフッと軽く笑い、良い焼き色が付いた魚を選び、私の方へと差し出した。
「…先に食え。腹が減っているだろう」
「えっ…いいの?」
「ああ。」
私は魚を受け取り、少しの間、男の人の瞳を見つめた。堅物男だと思っていたばかりに、その優しい気配りに私は少し驚いていた。
「ありがとう!…それじゃあ、いただきます…!」
私は思い切り齧り付くと、あまりの美味しさに、言葉にならないような感嘆の声を漏らした。
「フッ、そんなに美味いか」
「ええ!とっても美味しいわ!貴方、焼くの上手なのね!」
「焼くのに上手いも下手もあるか。おかしな事を言う女だな」
その時、切長の目が和らぎ、引き締まっていた口元を緩め、笑みを浮かべた。
初めて見た表情だった。
私は魚を食べながら、思わずその笑顔に魅入ってしまった。
「…名は何と言う?」
男の人がさりげなく聞いてきたので、私は動揺してしまい、魚の身を喉に少し詰まらせてしまった。
「……葵…って言うの。」
自分の名前を言うだけなのに、何故だか分からないが、胸が熱くなった。
「葵か…良い名だな」
男の人は優しい目をしながら、私に言った。名前を褒めてもらい、私は自然と笑みが溢れた。
――私もこの人の名前を知りたい…
先程は名前を教えてもらえなかったが、私はもう一度この人の名前が聞きたくなり、勇気を振り絞った。
「……貴方の名前は…?」
その時、私達の間に強い風が吹いた。
私は風を遮るように着物の裾で顔を隠すと、揺れ動く着物から男の人の顔を垣間見た。眉間に皺が少し寄り、表情を曇らせている。私はその表情を見て、何故だか人の隠し事を暴いているような感覚になり、胸が痛んだ。風が吹き止むと、男の人は固く結んでいた口元を緩ませた。
「俺の名は…シンという」
「…シン…」
私達は暫くの間、瞳に映る互いの姿を見つめていた。