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 想は部屋に入るなり洗面台へ向かい、水を溜めると汚れたシャツを浸して漂白剤を入れた。
 顔を洗い、顔や首に血が付いていないか確認して白いYシャツに袖を通す。無意識に新堂が使っているネクタイを手にとって慣れた手付きで締める。

『あ』

 クローゼットから黒のスーツを出した想が、内側の小さな鏡に新堂のネクタイをしている自分の姿に気付く。少しでも彼の存在を感じていたいと思っていることに、想は寂しくなってネクタイに触れた。
 借りてもいいかな、と考えていると、着信を知らせる振動をスウェットのズボン越しに感じた。相手を見ると、凌雅だ。
 想が電話に出てマイク部分を三回、指先で叩いた。

「っ……!!」

 凌雅の携帯から聞こえたのは新堂の声だった。
 身体から力が抜けそうな程に安心した想はその場にしゃがんだ。声を聞いただけでここまで心が揺さぶられる事に戸惑いながらも、求めていた声音に気が緩んだ想が泣くのを耐える。
 そんな様子を心配する言葉を新堂は言った。
 想はマイク部分を一度指先で叩き、大丈夫だと答える。早く帰れるように努力する、と最後に聞こえた言葉に想は再びマイク部分を一度叩く。
 音になることは無かったが、想も言った。

『きをつけてね』

 新堂は今日、連絡が取れない場所で仕事だと聞いた。どんな仕事かは分からないが危険がないとは限らない。ヤクザ業以外にも様々な仕事をしているのだけは分かる。
 今は立花全とのことは考えても仕方がない。仕事は成功したのだから、もう関わってこないことを信じるしかないのだ。
 想は自分ばかり弱音を吐いてばかりいてはいけないと、立ち上がって素早くスーツを着て部屋を出た。
 
「よォ」
『しまづ』

 廊下には島津か仁王立ちで立っており、想の姿を見てエレベーターに『行くぞ』と向かった。
 島津の後ろに続きながら、今までまともに仕事をしたことも、バイトをしたこともない事実に想が不安そうに溜め息をした。自分自身に対してのそれだったが、島津は調子が悪いと思ったのか立ち止まって想の肩を掴んだ。

『なに』

 想が顔を上げると島津の難しい顔がある。心配させていると分かって、想が笑って見せた。

『へいき ほんと』
「石田さんは一応病院に行ったから心配いらねぇ。アニキたちが防犯カメラとか調べてる。お前はどうしたよ。なんかあったらすぐ……言えよ。……だ、だ、……ダチ……だろ!」

 目を伏せて言葉を絞り出す島津に想が吹き出すと、頭に島津のヘッドバットが直撃した。
 フラついて壁に手を付いた想を置いてエレベーターのボタンを押した島津は、すぐにやってきたそれに乗り込んで『閉』を連打する。
 慌てて追いかけてきた想が強引に乗り込み、島津が怒鳴る。 

「死ね!心配した俺がアホだったわ!」
『だって』

 照れた島津がキモかったとは言えず、想は何度も謝った。エレベーターが地下の駐車場に到着しても、島津はプンスカしていたが、想は自分が島津を怒らせるのはいつものことだっため、どこか楽しそうに後ろを追った。
 一台のバイクまで行くと、島津はヘルメットを想に投げ渡し、自身も被る。エンジンを噴かすと地下の広い駐車場に音が反響して腹に響いた。想はバイクの後ろに跨がり島津の腰に腕を回した。いつもならそれで発進するのだが、想は島津の大きな背中にぎゅっと身を寄せた。

「あ?俺怒らせたから振り落とされるってビビってんのか?」

 『怖くないよ』と頭を横に振って否定しながらヘルメットで島津の背中をごりごり往復し、島津の腹に回した手で『ありがとう』とサインを作る。
 島津は少しの間をおいて、ふん、と鼻であしらうとバイクを走らせた。









「じゃーな、一時間くらいしたらここにくるわ。せいぜい頑張れ……マジで平気か?」
『うん ありがとう』

 緩く手を振り島津を見送った想は、洋菓子店『アルシエロ』の扉を開く。
 店内は広すぎず、ショーケースには十種類前後のケーキがならんでいる。落ち着いた洋風な作りで、少し古めかしい雰囲気が似合う。
 ケースの向こうにはコーヒーを淹れる様々な道具があり、その前でグラスを磨いていた三咲開いた扉を見た。

「あ、きたきた。適当に座ってて」

 ふわっと微笑み、店内に二席あるテーブルを手で示した。客がいない店内をぐるりと見渡しながらコーヒーのいい香りに目を閉じると、カウンターから出てきた三咲が煎れ立てのコーヒーをテーブルに置いた。
 想が三咲の傍に行き、頭を軽く下げるとノートサイズのホワイトボードを渡される。

「軽く聞きたいとあるから、簡潔に書いてよ。楽だろ?」
『はい』

 座って、と促された想は三咲の向かいに座り、緊張気味にマジックを握った。三咲はコーヒーを一口飲んで、想のホワイトボードを指で触った。

「自己紹介を書きながら聞いて。俺は三咲龍一、今年で35。専門卒。自覚している性格は面倒くさがりで頑固かな。趣味は……なんだろう。ない……いや、仕事かなぁ」

 想がホワイトボードへ書く手を止めてチラリと三咲を見る。笑うでもなく、無表情で想の手を見ている。
 趣味が仕事なんて、誰かさんと同じだなぁと想は新堂を思い浮かべた。

 ”有沢想。23。高校中退。食べることが好き“

『すみません』

 仕事に役立つ誇れる資格などない想がマジックを持ったままの手を右往左往させる。三咲がそれを見て質問を始めた。

「字が綺麗。以前の仕事は?」

 “事務?”

「疑問系……?バイト経験は?」

 “なし”

「ふーん……ヤクザなの?」

 自然な声音で唐突に聞かれた想が一瞬たじろぎ、“ちがう”と答える。その答えにも三咲はあまり興味の無い様子で相づちをうち、視線はずっと想を観察するように遠慮がない。
 想がボードに答えを書いている最中も。
 美人な顔立ちの三咲の視線に居たたまれない想はあまり彼を見ることが出来ずにいた。









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