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『よし』
時計を確認すると、まだ七時になる少し手前だった。
身体を動かしてから面接へ向かおうと決めた想がジムに行くために適当にシャツを被ってパーカーを羽織る。ジムが24時間使用できるのは、このマンションの住人が様々な時間帯に仕事をしおり、余暇も快適に過ごすことを考えてのものだった。
しっかり施錠して携帯電話を何気なくチェックした想が思わず立ち止まる。
シンとした廊下が不気味で、想は反射的に壁に背中を付けてキョロキョロと周りを見回す。
誰もいないし気配はない。ホテルのような完全に室内の廊下の窓は天井近くに細いものがあるだけ。この部屋のある階は高く覗くことは出来ない筈だ。
“おはよう。部下が会いに行く”
『だれ』
知らない人間からのメッセージに問い掛けたが、想は既にひとりの人間を思い浮かべていた。
日本でも有数の大きな青樹組組長であり、祖父の立花全だ。想は先日初めて会った全にいい印象を持たなかった。黒いオーラを纏って強欲さを隠さない。自信に溢れて他人を見下す。
新堂も若林も気を許すなと言っていたが、正にその通りだと感じさせられていた。
そんな事を考えながらメッセージは無視してジムへ向かった。
「ーーっ!」
利用者に渡されているカードキーを認証パネルに当ててガラス扉を開くと、見知ったトレーナーの若者がうつ伏せに倒れていた。
慌てて駆け寄り、想が頬に触れるとピクッと反応を示した。仰向けにして身体を見たが外傷は見受けられない。
『いしきが』
救急車を呼ぶために携帯電話を持ったとき、背後の気配に想が振り返ると、四十代の細身の男が立っていた。
「大丈夫。少し眠って貰っただけだ。スマホを置いて立ち上がれ」
男の手にある銃を見て、想は言われたとおりに立ち上がって男を睨む。
男は鼻で笑って指で近くに来るように示した。想が二、三歩近付くとジムの入り口にある休憩所の椅子に座るように促され、素直に応じる。
想の正面に立ったままの男が懐からありふれた茶封筒を取り出す。差し出されたそれに想が首を傾げ、受け取らずにいると男が笑った。
「お前にだ」
いらない…と顔を背けた想に男が声を立てて笑った。
「おい、セキュリティーはなかなかだが、甘いようだ。エレベーターも新堂の小僧の階にはキーがなければ止まれない上に、階段は非常階段だけ。しかも屋外で外からは開かない。鍵はピッキングし難い磁石式ときた。でも、此処までは楽に入れた。鍵を手に入れることも出来るだろう」
新堂の部屋へのエレベーターの鍵を持っているのは本人、想、凌雅、島津と蔵元のどちらか、中野を連れてくる運転手のみだ。
『分かるか?』と言われてその内の誰にも危害があっては堪らず、想はしぶしぶ封筒を受け取り、キレイに開けて中身を見た。金額が空欄の小切手だった。
『なにこれ』
封筒にそれを戻して想が男を見た。
答えを貰いたくてじっと視線をぶつけてくる想に男が頷いて隣に座った。
想が立ち上がろうとすると、腕を掴まれて座らされる。
「まあ警戒するな。オヤジから連絡がきただろう?仕事を頼みたい。とても急いでいるから俺が来た。大瀧と呼んでくれ」
しっかりとした顔立ちで、優しそうな雰囲気を醸す男、大瀧が微笑む。
想は表情を変えずにテーブルの記録用紙とペンを手繰り寄せて簡潔に伝えたいことをかいた。
“声がでない、仕事は出来ない、したくない”
さっと目を通した男が頷いて、穏やかな口調を崩さず返した。
「聞きたいことは俺が聞く。相手はなかなかしぶとくてな。三人のうち二人はもう…聞き出す前にくたばっちまって。半人前の拷問じゃあ…加減が難しい。俺はお前みたいな若造に出来ると思ってないが、オヤジが言うからさ。俺に出来なかった事がお前みたいなガキに出来るか?無理ってもんだ」
後半は呆れた様子で想を見ていた。
想は大瀧の言葉に頷いて、出来ないと伝えた。大瀧は想には無理だと思っている。無理だと言えばすんなり帰るかもしれない。
「だが、やるだけやってもらわんと」
“やらない”
再び綴った紙を大瀧に押し付けて、想は立ち上がった。
だが、押しつけた紙ではなく、想の手首を痛いほど握る大瀧の穏やかな雰囲気が霧散していく。想を見る瞳が暗く射抜く。
「やるだけやらねぇと。その金は何だと思う。この仕事に手を着けなかったら、オヤジはお前に付きまとうだろうな」
『は』
「新堂の小僧と恋仲だって?あいつも敵が増えたら大変じゃねえか」
想の視線がぐらつくのを大瀧は見逃さない。
ぐぐ、と想の抵抗を抑える大瀧の握力に想が顔をしかめる。手首が潰されそうだった。
「あー、今回だけじゃなく、何度もあるんじゃないかって危惧しているわけか。なら、オヤジに連絡してやるから。今は急いでるって言ったろ?」
信用出来ない。
右隣に座って、ぎりぎりと想の右手首を握る大瀧の力は緩まなかった。
想は握られている右腕から抵抗の力を抜いた。張り合っていた力が緩み大瀧が少しバランスを崩したのを見て想が空いている左腕に上体の重みを乗せて掌底を顎目掛けて押し込んだ。
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