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春への挨拶を終えた想は、廊下にいた立花全の部下に奥の客間へ促された。その客間には料理が並び、品のある若い女性ふたりが御酌をしていた。
立花全は水のように注がれた酒をあおり、様々な話題を若林と新堂へ振った。
若林は食事をしながら酒を飲み、新堂はどちらも控え目に手を着けた。
想が仏間から客間へやって来ると、立花全が手招きして自分の座る座椅子の隣を叩いた。
想が静かに入って畳に正座すると杯を渡された。そこに並々と日本酒が 注がれる。
「酒は飲まんか?」
想が独特の香りに口を付けることを躊躇っていると、立花全が驚いた顔をする。
杯を持ったまま想は嫌々ながらお酒を舐めた。
「オヤジ、想は一般人だし酒に慣れてねぇんだ」
「そうか。じゃあ食え。うめぇぞ」
若林が言うと、それ以上は強要せずに食事を促した。大きく太っている立花全はもしかすると毎日こんなに豪華な食事をしているのかも……と想は思いつつ、手を合わせてから箸を取る。ちらりと立花全を見て手元の空の皿を指差す。
「なんだ、そんなこと女にさせりゃあいい」
想が苦笑いし頷き、自分の食べたいものを皿に取る。想は肉食だったが、新堂と暮らし始めてから野菜のおいしさも分かるようになっていた。最近はワインの美味しさも教えられている。
バランスよく料理を取った想を見て、立花全は笑った。
「漣と暮らしとる話は本当らしいな」
想が首を傾げると、立花全は想の頭を乱暴に撫でた。
新堂が少し目を細めて二人を視界の端で見る。
「野菜嫌いと聞いて俺と同じと思ってたがな」
「いいことだ!野菜食った方がいいに決まってるだろ。オヤジも食えよ。病気になるって」
若林が言うと立花全は鼻で笑って拒否した。
死んだ方がましだ、と酒を飲み干す。
間もなくお酌をする女性の腰を撫でていた手を離し、立花全が新堂と若林を指差した。
「ふたりは外せ。孫とサシで話がしてぇ」
新堂が立花全を無表情で見据えていると、肉ばかりの手が不機嫌そうに机を叩いた。
想が空気の悪さに戸惑いながら新堂を見る。怒っている。新堂の表情はいつもと変わらず整っていて静かだが、視線は立花全を殺しそうなほど冷たい。
「はあ……おら、行くぞ新堂。オヤジの自己中は知ってんだろ。何言ったって俺たちが出て行くしかねぇんだよ」
若林が立ち上がって新堂の背中を足で押す。
新堂は何か言いたげだが、何も言わずに立ち上がって若林の後に続いた。
二人が静かに廊下へ出たのを確認して、立花全が想に微笑んだ。
*
長い廊下は庭に面していて、新堂はその庭を眺めていた。
若林が腰を下ろしてタバコに火をつけると、新堂が立ったたまタバコを要求した。
「禁煙したんじゃねぇのかよ」
「してるよ。つい最近、俺の車で吸っただろ。死ね」
『さあね』と知らぬふりで若林が火をつけたばかりのタバコを新堂に渡す。深く吸い込んでゆっくり吐き出した紫煙が辺りに広がって消えた。
新たに火をつけた若林が少し見上げると、新堂が冷えた視線を庭の桜へ向けていた。
「……思い出すか?あんまりここへは来たくねぇだろ」
「別に。お前が知らねえだけで時々ここには来てる。柴谷の事を報告するためにな」
あっそう、と若林がため息と共に煙を上に吐き出す。遊ぶように長く細く。柴谷玄と立花全は異母兄弟だが、昔は肉体関係を持っていたらしい。
身体の弱い柴谷の為に新堂を仕えさせるほど、立花全にとって大きな存在のようだった。新堂はそう調べをつけた。死にそうな柴谷を思い出して目を閉じる。
どうにも出来ない状態の柴谷の事は気にかけるくせに、子供や孫にはどうだ。娘の花を死に追いやったヤクザを追う事を禁じ、死の淵に立つ春と地獄を歩く想にも関わろうとしなかった。それが突然会いたいと言う。何かあるに決まっている。
新堂は感情が焦げるような感覚に、ネクタイを緩めた。
「……オヤジは北川にお前と想を売ったんだぞ。間違いなく殺す気だった」
「オヤジはそういう人間だ。北川か俺達か……あわよくば潰し合ってどっちも、っつー事か?お前、いくら払ったよ。北川を始末するためにどんだけオヤジに金払って目ぇ瞑ってもらったよ」
「……大した額じゃない。あのブタ、とっとと殺っちまえよ……」
出来ないと分かっていても本音が漏れた。殺すことは簡単でも、後が難しい。混乱は避けられないし、お互いの部下たちや関係者も危ないだろう。
それだけ影響力のある立花全だが、もはや本人にそこまでの力があるかは定かではない。もう地位と金と媚びる部下の力だけで君臨しているようなものだった。
「正直、ここまでオヤジの周りが強いとは思ってなかったわ。…俺たちもオッサンになっちまったし、しがらみが多過ぎて仕方ねぇ」
若林の姉であり想の母、立花全の娘である花が事件に巻き込まれたときでさえ、何もせず、ラスベガスにいた。妻はあまりのショックから自殺。幼い頃から全の暴虐さに振り回されていた若林と新堂は家族を簡単に捨てた全に元よりあった殺意に似たものが、しっかりと形を持って胸に現れた。
立花全を王座から引きずり降ろしてやろうと密かに孤軍奮闘してきた。それは立花全、本人も分かっていて、それでも何も言わない。逆に、そんな二人に仕事を任せ、平気でいる。二人に自分は殺せまいと全は自信を持っているからだった。
「……想が心配だなぁ」
想はヤクザではない分、自由だ。
汚れたものを見れば見るほど、想はどこか純粋に見えた。子供の様で裏表がない。成長過程でがらりと変わった日常、様々な経験を飛び越えて血沼に突き落とされた事もあるかもしれない。付け込まれれば立花全に利用されることもあるだろう。
ふたりは黙ったまま静かに、まだまだ咲きそうにはない庭の桜を見つめた。
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