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「有沢くんおはよーっ!社長も」

 いつもの車の脇で待っていたのは凌雅だった。軽く手を振って笑顔を振りまく様に、想も笑顔を返す。
凌雅はドアを開けて二人を促した。

「ねぇ、これ読んでみて」

 ドアを閉める間際に想に渡された本を受け取る。読み込まれた感のある本だった。『sign』と書かれている。

「手話の本。簡単なサインから色々載ってるから参考にしてみてよ」

 運転席に乗った凌雅がミラー越しに想に言った。
 ぺこりと頭を下げてお礼をした想が本をめくる隣で新堂が優しく微笑む。
 本を膝に置いて簡単なサインを見真似していた想が新堂の視線に気付いて笑みを返す。

「妬ける」
『なんで』
「俺の想なのに」
「ガキみたいな事言うなんて、似合わないっす」
「凌雅くん、本は例の洋菓子店の人から?たしか母親が先天性の難聴だったよな」

 ギクッと身体を反応させて、『さあ……』としらを切った凌雅が車を走らせる。

「想はどこか抜けてるし、利用されるなよ」
『はい』
「ちょっとちょっと!利用してないから!……いや……ちょっとだけネタにしました……ゴメンナサイ」

 移動中、なかなか振り向いてもらえない凌雅の相手の話を聞いていた想は、緊張も解れて自然と笑っていた。









 車で一時間半程で立花邸に着き、凌雅は二人を降ろすと笑顔で手を振った。迎えに来るまで仕事に戻ると言い、想は立派な門構えの邸宅を前に何時間ここにいるのか不安になっていた。

「どうぞ」

 引き戸を開けられ、中へ促されて想は新堂の後ろに続く。平屋で和風な作りの建物は、どこかの料亭の様な庭の奥に建っていた。
 想がポカンとしていると、新堂に顎を上げられた。

「口閉じろ。舌入れちまうぞ」

 新堂は優しく笑い、想の背中をそっと押して本宅へ入った。
 思ったよりも中に人間は居らず、しんとしている。天井も床も傷一つ無く美しい木目で生活感がない。新堂の隣を歩きながらちらりと想が横目に彼を見ると、少し視線は俯き気味で普段と違う雰囲気をしている。
 新堂も少なからず緊張するのかと思い、想が腕を伸ばして腰を寄せるように身体を近付けた。一瞬驚いた様子だったが、想の頭を引き寄せて髪にキスをした新堂は、いつもの様子に戻り足早に先に進んだ。
 廊下の面する美しい中庭は、まだ寒さのある季節にも関わらず飽きさせない程手入れがされていた。
 想が置いて行かれないようについて行く最中、中庭ばかり見ている姿に新堂が立ち止まり中庭の木を指差して植物の名前を教えていると、聞き慣れた声が二人に届いた。

「そっちのが早かったか。想!元気そうだな」

 若林の声に想が嬉しそうに手をあげる。
 新堂の部屋にこもっている以上若林には会えない。どかどかと寄ってきた若林が新堂をどかして想を抱き締める。

「はぁああ……変わってない抱き心地だ。安心したぜ」

 『苦しい』と腹を押し返すが想の力ではビクともせず、益々身体に押し付けられるようにされて抵抗を止めた。

「新堂はちゃんと飯食わしてくれてるか?」

 腕から解放されたと思ったが、両頬を手のひらで押さえられて顔をまじまじと見られ、さすがに想が足を蹴飛ばした。若林が、『痛ぇな!』と笑って想の顔を放したが、今度は新堂の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「オイ、なんか頬が痣っぽいぞ」
『へいき』
「新堂!」
「平気って言ってんだろ。騒ぐなよ」

 胸ぐらを掴む手首をぎゅっと握って捻る様にするが、若林も負けじと力を込める。睨み合う二人に、想が口を開くが音には成らずに悔しさから歯を食いしばった。

「騒がしいぞ」
「…オヤジ!」
「手」

 若林も新堂もぱっと手を離す。想もつられて若林から離れた。奥の襖から現れたのは大分大柄で縦にも横にも大きな白髪混じりの髪をした年配の男だった。
 想が若林の影から男を見ていると、目が合う。細められた目は、顔にも付いた肉の所為か埋まってしまいそうだった。

「想か。でかいのう。花の子とは思えんわ」
『おじいさん』

 想が訊ねるように若林を見ると、頷いた。襟を正ながら新堂も頷く。

「立花全。想、お前の祖父だよ」

 太った熊の様な全が襖の奥に消えると、それに若林が続く。新堂が想を促して部屋に入った。

「仏間じゃ。春に挨拶せえよ。花や清和にもな」

 震える足に気合いを入れて、正座をする。目の前の仏壇には春を思わせる物は何もなく、思っていたより自然に手を合わせていた。想の姿を見て、新堂が襖を開けて若林と部屋を出ようとした。

「オヤジ、廊下にいるから」
「廊下と言わず酒でもどうだ。想、ゆっくり春と話ししぃや。こっちはこっちでやっとるで」

 目を瞑って手を合わせる想を1人残し、全に言われてふたりは別の部屋へ消えた。
 想は涙が出なくてホッとしていた。目を閉じたまま春を思う。死んでしまいたいと思っていたが、今は春の分まで生きたいと強く思っていること。時々、夢で感じる春の存在が大切なこと。

『いつもありがとう。だいすきだよ、はる』

 想はしばらくのあいだ、目を閉じて手を合わせて座っていた。








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