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昼に一時帰宅した新堂が部屋に入ると、新聞紙に大きく『求職中!』と書いてアピールしてくる想が廊下に立っていた。
新堂が小さく笑う。
「どんな仕事がしたいんだ?」
新堂が靴を脱いで上がり、想と一緒にリビングに入りながら訊ねた。しかし想は『分からない』というポーズして見せ、しゅんとした。
「無理して働く必要はないだろう」
キッチンに置いた箱には今日もケーキが入っている。相変わらず凌雅はケーキ屋の子に夢中のようだった。新堂がお湯を沸かしていると、想はしゅんとしたままケーキをお皿に移す。手に着いた生クリームを舐めると、顔を上げたときに新堂が触れるだけのキスをした。
「外のやつらに何か言われたな」
怒りを含む声に想が驚く。
怒っている新堂は珍しかった。
想は反射的に首を横に振ったが、新堂には通用せず、気まずくなって俯いた。あの二人は二度とここに来ないだろうと思うと申し訳ない気分になる。
「なんでも真に受けるな。あんまり先走るなよ。ゆっくり社会復帰すればいい」
その通りだと思って想は頷く。と、言うより、頷くしか出来ない。出来る仕事などあるか分からなかった。コーヒーをいれる新堂に身体を寄せて、想は小さく溜め息を零した。
「そうだ。オヤジの所に明後日行くつもりだ。行けそうか?」
優しく髪を撫でながら視線はコーヒーカップに落としている新堂が聞くと、すぐに想は頷いた。
トレーにケーキとコーヒーを乗せて、想がそれを持つ。
『あのさ』
リビングのローテーブルにトレーを置いた想は、向かいに座る新堂の前にコーヒーとケーキを差し出してから口を開いた。
つい普通に話そうとして、音にならないことに溜め息をして新聞紙にマジックで書き込む。
『じいさんに会ったこと無いけど、どんな顔すればいいのかな?』
「……会ったこと無いのか?一度も?」
驚いた様子の新堂に、控え目に頷いて新聞紙を退けた想は、変な事を聞いたのかな?と誤魔化すようにケーキを引き寄せて一口食べた。相変わらず甘さ控えめで軽い後味に思わず顔がゆるむ。
「はは……想は本当に愛されて育ったんだな。花さんはすごい人だ」
『なんで』
新堂は微かに微笑んだ。
「なんでもない」
ケーキにフォークを入れた新堂に、話を終わらされた想は首を傾げる。
母を思い出す。母は、とことん祖父の話はしなかった。
ヤクザになった若林が家に来ることもあまりよく思っていなかったことを思い出す。
祖父の思い出と言えば若林が誕生日に『おじいちゃんから』と、プレゼントを持って来てくれていたことだけだ。花は家族をヤクザと関わらせたくなかったのだろうと結論付ける。
「仕事、探してみるよ」
思考に入っていた想は新堂の言葉に現実に戻され、嬉しそうに頷いた。
*
青樹組総本部、立花邸に出向く日の朝。
想は心臓が痛くなるほど緊張していた。
そんな様子の想を見て、新堂は笑っていたが、想からすると笑い事ではない。会ったこともない祖父が巨大なヤクザ会社のトップで、どんな人間なのかも分からず何を言われるのか怖かった。なにより、春の前に立って、もしも泣いたら叱咤されそうだ。
「立花全だって孫には優しいさ。おそらくな」
『おそらくって』
いつもよりきちんとネクタイを締めて、ガチガチの想は新堂の適当な励ましに頭を抱えた。
しかし、ここで踏ん張らねば前に進めない、と想は拳を握り締める。弱音ばかり吐いていられるか。顔までガチガチでソファーに座る想に、新堂が顔を近づける。触れそうで触れない距離で止まっていると、想は思わず笑ってしまった。
『キスしないの』
「期待しただろ」
素直に頷いた想の唇に新堂が親指を充てる。ゆっくり唇をなぞって、指先を離してからキスをした。
「物欲しそうな顔だ」
触れるだけのキスの後、からかうように言われて頬を染めた想は新堂の肩を押して立ち上がる。そのままさっさと部屋を出た。
「たまんねぇな」
新堂はからかわれて怒った想の顔を思い出して口端を上げた。
暫くして、出て行った想の後に続いてゆっくりと部屋を出た。
「「はようございます」」
「おはよう」
島津と蔵元が出てきた新堂に頭を下げる。
想がエレベーターの前で腕を組んで待っていた。新堂の姿を確認した想がパネルを押すと、すぐにエレベーターはやってきた。
一緒に乗った後、想が新堂に手のひらを差し出す。其処にはジッポライターが乗っていた。
『しまづ』
「島津から?」
『おまもり』
受け取って、新堂がそれを観察する。ボディ全面にトライバルが彫ってある。
「お前にぴったりのモチーフだ」
想にそれを返した新堂は頷いたが、想には全く分からずに首を傾げた。
タバコなんて吸わないのに……と指先でジッポをいじりながら想は華麗に舞う姿のツバメの柄を眺めた。
エレベーターからエントランスを抜けて外に出ると、想は少し緊張して新堂の手に触れた。
新堂は前を向いたままその手を握った。お互いの体温を微かに感じる。
『ありがと』
「そばにいる」
想の言葉は聞こえないはずだが、望む言葉が聞こえて足取りは軽くなった。
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