38
小さな溜め息を零して新堂が足を組み替えて車内で読んでいた新聞を畳み、それで若林の顎を叩いた。
「髭面の泣き虫オッサン、岡崎組は大丈夫なのかよ。揉め事は今のところ聞かないが。……殺しちまって悪いとは……思ってねぇけど、迷惑かけたことは悪いと思ってる。手伝うことがあれば言えよ」
「いや、お前だってしんどい時期だし、こっちは心配すんな。なんせオヤジのタマ狙ってたんだ。北川は死んで当然だ。野心家だったからな。……俺たちの敵を取らせるもんか」
「当たり前だ。上手く片付けてくれてよかったよ。白城会はそのうち凌雅くんに任せるつもりだから頑張るのはアイツだ。俺は金を作って後ろ盾を増やして支えてやるだけ。……お前のこともな」
「オイ、あのなぁ……」
若林が何か言おうとしたが、車が新堂の会社に着いた。
続きを聞く気もない様子で自分からさっさと降りた新堂が、中野が降りる為に手を差し出す。
「田川、岡崎組組長を安全に送ってやって」
新堂はそれだけ運転手に告げて、ドアを閉めた。
「……っは、変わんねえな。ムカつく」
不機嫌を全開に若林がタバコに火をつけて悪態を付くと、運転手の田川が慌てて声をかけた。
「若林さんっ!!申し上げにくいですが禁煙ですっ!社長が怒りますよ!」
「あ゛ぁ?知るか。禁煙野郎への嫌がらせだっつの。てめぇ、無駄口叩いてねぇでちゃんと運転しろよ。目ン玉焼くぞ」
今の恐怖か、先の恐怖か。おろおろする田川のハンドルを握る手にドッと汗が溢れた。
*
「社長と岡崎組の若林さんは親しそうですね。トップの方々はみんなお互いの私利私欲を隠しながら、いつ寝首をかいてやろう…みたいなイメージでした」
中野がオフィスに向かいながらそう呟いて、新堂がおかしそうに笑った。
「親しい?そうかな。でも、イメージ通り、他の所はどいつもこいつもそんな感じだよ。協力と見返りが同等じゃない。力の在る方に、無い方が譲歩するしかない。理不尽だが喰うかか喰われるか……だ」
『怖いですね』と中野が新堂の背中を心配そうに見つめた。新堂から欲を感じたことがない。そういった連中の中で、どうやってずっと喰う側に居座ることが出来るのか不安だった。
「中野さんが心配するのは会社の方だけで十分だよ」
微笑んで自分のデスクへのガラス扉を開いた新堂が中野を中へ促す。中野は女性をさり気なく気遣う新堂が他の権力者達と違う事を知っていた。威張り散らさないし暴力的でもない。威圧的な事はあっても、中野にはそれがない。
常に静寂だ。
「社長も私欲が?どんなものを求めてるんでしょうか」
今日の予定や指示、報告を始める前に中野が真顔で訊ねた。
新堂はうっすらと笑うだけで答えずに、内容を促した。
*
静かで湿度の高い屋内プールに時折水音が響く。
もうなん往復も泳いでいる想はいつ止めようかと悩んでいた。もう1往復、と決めて水を蹴る。
すいすいと泳ぎ続ける想を、見張りの1人が遠目に眺めていた。
「社長の情人(イロ)のくせにイイご身分だな」
タオルで髪を拭いていた想は知らない言葉に首を傾げた。いい意味ではないことが相手の表情から窺える。想は相手にするのも面倒で、知らん顔でロッカーへ向かう。
「いつまで社長の部屋に入り浸る気だ。男のくせに尻に突っ込まれてイっちまう娼夫が。目障りだ」
数メートルの道中にも喋り続ける男にイラついて、立ち止まり睨みつける。そう思う人間もいて不思議はない。想は働いていないし新堂の部屋に住み着いている。事実が更に苛立ちを増幅させた。
「小柄で可愛いならまだしも、お前みたいなおとこっ…!」
想がタオルを投げつけ、油断していた男は単純な陽動に掛かってプールに蹴り落とされた。水面に顔を出して怒る男に舌を出して笑ってやると、罵声が響いた。
想は手を振ってロッカールームに入り、着替えをすませて走って部屋へ戻る為にジムの扉を開く。プールから上がったびしょ濡れの男が喚いていたが、知ったことない様子で去った。
『はたらかないと』
想の呟きは溜め息として消えた。
高校は途中までしか出ていない。バイトもしたことはない。
その上、今は声さえない。
北川の言葉を思い出す。『人殺し』。想は半乾きの髪をふるふると振ってその考えを飛ばした。
← →
text top