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午前1時過ぎ。
イスカは全てのグラスと食器を片付け終えて、手伝ってくれていたアオイに頭を下げた。
「アオイさんも疲れてるのに、ありがとうございます。ヒワはタカ兄と接待だから……助かります」
「いや、いいよ。ホストとして経験できることも、もうあと少しだし……でもね、高校生は22時以降の就業はだめだよ」
「……真面目。兄貴の店で働かされてるだけだから」
「そういうのも、ダメだってば」
「ヒワに変な態度取るのもダメだってば。やめて下さい」
手を拭きながら、説教くさい事を言い始めたアオイに、イスカは目を細めて強く言った。
そのまま、アオイの反応をうかがうようにじぃっと視線を向け続ける。
ホストらしさの少ないアオイは、笑顔でのらりくらりと質問をかわすような男ではない。
今も、イスカの言葉に、なんと返せばいいか悩む顔だ。
「ヒワ、アオイさんに何かしました?かわいそうです。アオイさんに懐いてるのに」
追い討ちをかけるように続けるイスカに、アオイは少し言葉を迷うように、けれど真剣に答えた。
「その……ヒワが、俺を好きだって……聞いた」
「それが?」
「付き合いたいって、本当なの?」
「同性愛はダメって?」
「え?!いや、そんなこと言ってないけど」
「好きって聞いたから、避けてるの?」
普段、食い下がるようなことはしないイスカの、真剣な様子にアオイは黙った。
イスカはこの数日のヒワの様子に苛立っていた。
もう後戻りは出来ないと話してからも、上手に避けてくるアオイに、ヒワは足踏み状態。いつもの笑顔もぎこちなく、何を話しても上の空。
普段、控えめなイスカもさすがに口を挟まずにはいられなくなってしまったようだ。
ぎゅっと拳を握り締め、アオイを見据える眼差し。そこには必死さが少しうかがえる。
アオイはその姿がヒワと重なって思わず目を見開いた。
一瞬、息が止まったような感覚に、ただ喉を鳴らした。
ーーーイスカじゃない。目の前の赤髪はヒワだ。
アオイは自分に向けられる視線の強さに、声が出ない。それは、獲物を狙うような鋭い光を灯していた。
どうしてふたりが入れ替わっているのか、少し考えてアオイは小さく喉を鳴らした。
ーーー自分とふたりきりになるためだ。避けていたから……
アオイのその様子を見た、イスカに扮したヒワは、彼が入れ替わりに気づいたことに少しホッとしたように目元を緩めた。それから、普段の金髪を赤く染めて重めにセットした前髪を、ゆっくりと掻き上げた。
アオイは上手く接することが出来なくなっている自分を内心で罵った。
ヒワはいつもキラキラが飛び出しそうな目をアオイに向けてきた。それが、恋愛感情だとは思っていなかったが、そう言われてしまえば、ただただ納得としか言えない。
ヒワからキラキラした瞳を奪ったのだと思うと、胸がチクチクと痛んだ。
今、自分に向けられている視線は、真剣で、突き刺すような、そんな眼差しだ。
「……ごめん」
何も考えず、ただ自然とアオイの口から、ぽつりと漏れた謝罪の言葉。
イスカに扮したヒワは、一瞬、眉根を寄せてから口元に笑みを作った。
微かに歪んだ顔に、アオイは時が止まったように感じた。胸がドッと高鳴り、身体の芯からグワっと何かが湧き上がった。
「あーあ、せっかくイスカと入れ替わり作戦して、アオイくんの気持ちを聞こうと思ったけど、ダメな方かぁ……」
ヒワはイスカに変装するために重めにセットした前髪を、何度も邪魔そうに掻き上げながら、静かに、消えそうなため息を吐き出した。
自分の性癖を知る人には言われること。
ーーノンケはやめな。
言葉の意味は分かっているものの、気持ちの制御が出来るほど、ヒワは大人ではなかった。
初恋は実らない。
よく聞くフレーズがヒワの心の中にふわりと浮かんで、溶けるように消えた。
「アオイくん、あと少しだから先、帰って。変なこと言って、煩わせてごめんね。手伝ってくれてありがと」
ヒワは震える唇を隠すように口元に手の甲を押し付け、努めて明るく言って背を向けた。
明日の予約指名を確認するためにパソコンに触れた時、アオイから再び『ごめん』と声が漏れた。
ヒワは頷くのが精一杯で、声を出せば泣き出しそうなほど胸がギチギチに詰まっていたため、背中を向けたまま手を振ってパソコンに集中するふりでアオイとの会話を終わらせた。
視界が揺れる。滲む。
ヒワは、きっと優しいアオイならば、潤んだ瞳で見つめながら、抱き着いて縋れば、『可愛く』してみせれば、せめて抱き締めてくれると分かっていた。
ただ『ごめん』と謝るだけの彼に、無理矢理に口付けて『一度だけでいいから抱いて欲しい』と必死で甘えれば、応えてくれるような気さえした。それくらい、アオイは優しい男だから。
そして、その後はいつものように計算高く、距離を詰めて……いつか。
考えれば考えるほど、ヒワはアオイから望んでもらえない現実に、振り返ることが出来なかった。
可愛く甘える自信が今は無い。
未練がましく縋って、同情的な視線を受けるのは嫌だった。
ゆっくりと息を吐いて、泣き出さないように呼吸を制御しようとしたとき、ヒワの背後で扉の閉まる音が小さく鳴った。
「っ……、」
扉ひとつ閉めるときでさえ、アオイはそっと優しくする。
別段トークが上手いわけでも、金回りがいいわけでも、超絶イケメンでもない彼だが、ヒワにとっては王子様のような存在だった。
親は無く、育ててくれた兄がホストをしていたせいもあり、派手な女や男、金、駆け引きにまみれた人間関係ばかりを見てきたヒワ。
大人ばかりの世界に育ったヒワにとって、中学も高校も子供じみていて退屈だった。
そんなヒワにとって、アオイは初めて見る珍しい花のような存在だった。
弁護士を目指すような頭の良い男が、社会勉強のためにホストをする真面目な男が、可愛いひよこのキャラクターにメロメロというギャップ。
子供扱いばかりする周りの大人たちと、同級生を幼稚だと思ってしまう半端な自分に、優しく、優しく接する彼。
告白しなければ、その優しさに触れ続けられたのだろか……そう思うと、ヒワは耐え切れなかった涙がボロボロと溢れ始めた。
瞬きさえ忘れてパソコンの画面を睨みつけたまま、拳をこれでもかと握りしめて立ち尽くしていた。
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